阿部正弘(あべまさひろ)といえば、日米和親条約を締結したことで有名ですが、どんな人物だったのでしょうか。
開国を求めるペリーの対応に悪戦苦闘し、約200年間続いた鎖国政策を終わらせてしまった“無能な老中”とされることもありますが、実際はどうだったのでしょう。
この記事では阿部正弘はどんな人物だったのか、簡単にわかりやすく紹介してみたいと思います。
目次
阿部正弘のプロフィール
- 阿部正弘(あべまさひろ)
- 父:阿部正精(第5代福山藩藩主)
- 母:高野貝美子(阿部正精の側室)
- 享年39(1819年10月16日~1857年6月17日)
阿部正弘は何をした人?
欧米列強の脅威から日本を守るために、幕府の責任者として国難に向き合った阿部正弘の生涯とはどのようなものだったのでしょうか。
特に関係がある出来事を並べてみると、
- 老中就任
- 日米和親条約
- 安政の改革
などがあります。
以下で詳しく紹介しますね。
老中就任
阿部正弘は第5代福山藩主阿部正精(まさきよ)の5男として生まれました。
正弘は5男として生まれましたが、家督を継いだ兄が病弱だったので、1836年18歳で第7代福山藩主になります。
その後、正弘は1838年に奏者番(城中における武家の礼式を管理する役職)、1840年には寺社奉行に任じられました。
このとき、第11代将軍徳川家斉(いえなり)の時代に大奥と僧侶が乱交していたというスキャンダルが発覚します(感応寺事件)。
家斉の失態と大奥の風紀の乱れは幕府の恥でもあり、厳しく罰すれば大奥から恨まれることを察知した正弘は、僧侶を厳しく処罰する一方で大奥の処分は最小限にするという絶妙な裁きを下しました。
幕府の権威を傷つけることなく事件を解決した正弘は、第12代将軍徳川家慶(いえよし)のお眼鏡にかない、1843年25歳で老中に就任します。
正弘が老中になった後、江戸城の本丸が消失したり、外国問題が紛糾したことで、水野忠邦が老中首座に復帰しました。
天保の改革に失敗して罷免された水野が再び老中に復帰することに反対だった正弘は、水野が過去に行った不正を理由に追放し、27歳で老中首座(席次が一番上の老中)になります。
日米和親条約
正弘が老中首座になった頃、日本は欧米列強の脅威にさらされていました。
通商を求める外国船が次々に来航し、1840年に勃発したアヘン戦争に清国が負けたことで、イギリスによる植民地支配の危機が迫ります。
そのため、正弘は1845年から海岸防禦御用掛(海防掛)を常設として、外交と国防に対応させました。
正弘が欧米列強諸国に対する備えを整えるなか、1853年ペリー提督が開国と通商を求めるアメリカ大統領フィルモアの親書を持って浦賀に来航します。
さらに、今度はロシアのプチャーチンが長崎に来航して通商を求めてきました。
「開国」か「攘夷(外国を追い出そう)」か、対応に困った正弘は、親書を朝廷に報告して、諸大名や幕臣だけではなく庶民まで、様々な人に意見を求めました。
その結果、全国から800通もの意見書が集まりましたが、有効な解決策は見つかりません。
悩んだ正弘は「開国は認めるけど通商は拒否する」という結論を下し、1854年日米和親条約を締結しました。
ここに、約200年間続いた鎖国政策は終わることになります。
安政の改革
日米和親条約を締結した正弘は堀田正睦(まさよし)に老中首座を譲りましたが、相次いだ外国船とペリーによる開国要求影響を受けたことで、国防のために軍事力の強化を目的とした安政の改革を行いました。
正弘はペリーの開国要求に対して、諸大名や旗本だけではなく庶民にも意見を求めるなど、挙国一致体制を築くことで国難を乗り越えようとします。
さらに、勝海舟など能力がある者を生まれや出自に関係なく登用したほか、優秀な人材を育成するために、武術を教える講武所、海軍士官を養成する長崎海軍伝習所、洋学研究を行うための洋学所を創設しました。
この他にも、西洋砲術を推進し、それまで禁止されていた大型船の建造を許可するなど、海防の強化に取り組みます。
その結果、幕府には優秀な人材が集まりましたが、正弘が幅広く意見を求めたことが、幕府の滅亡へと繋がってしまいます。
それまでは、幕府のことは幕府が決めており、諸大名は幕府に口出し出来ませんでした(幕藩体制)。
しかし、正弘が諸大名へ意見を求めたことをきっかけに、諸大名が幕政に介入するようになり、幕府の権威は弱まってしまったのです。
1857年安政の改革に取り組んでいた正弘は39歳で急死しました。
阿部正弘のエピソード・逸話
本当にイケメンだった?
正弘はイケメンで、大奥からの人気がとても高かったと言われています。
さらに、阿部家の家門を入れた着物や簪を持っている者がいたと言われるほど、大奥の女性は正弘にメロメロになっていました。
歴代1位と言われるほど大奥からの人気が高かった正弘ですが、その肖像画を見てみると、顔立ちは整っていますが“ふっくらしている”というより、かなりの肥満体だったことがわかります。
肥満体だった正弘は正座が苦手でしたが、人の話を聞くときは必ず正座していました。
そのため、正弘が正座していた畳は汗でびっしょり濡れていたといわれています。
正座が苦手だったにもかかわらず、正弘は様々な人の話をよく聞いていました。
その理由は「失敗しないため」だったそうです。
ストーカー事件
当時、隅田川の近くに「山本屋」というお茶屋がありました。
この店は桜餅で有名でしたが、絶世の美女が働いていたことでも知られていたのです。
その美女の名前は「おとよ」で、彼女を見るために行列が出来るほど人気がありました。
正弘はおとよに恋して、しょっちゅう山本屋を訪れたり、遠くからおとよを眺めるというストーカー行為を繰り返します。
そして、おとよに対する思いを抑えきれずに爆発してしまった正弘は、おとよを強引に連れ去って自分の妾にするというとんでもないことをしてしまいました。
このことを知ったおとよのファンは激怒し、正弘の人気は一気にガタ落ちしてしまいました。
阿部正弘のまとめ
- 5男として生まれたけど、家督を継いだ兄が病弱だったので、18歳で第7代福山藩主になる
- 20歳で奏者番、22歳で寺社奉行になるなど、順調に出世する
- 12代将軍徳川家慶に気に入られ、25歳で老中になる
- 水野忠邦を追放して、27歳で老中首座になる
- ペリーの開国要求に対して幅広く意見を求めたが、有効な解決策を見つけられなかった
- 日米和親条約を締結して、約200年間続いた鎖国政策を終わらせる
- 軍事力の強化を目的とした安政の改革を行う
- 幅広く意見を求めたり、生まれや出自に関係なく能力がある者を登用した結果、幕藩体制が崩壊し、それが幕府の滅亡へと繋がってしまった
- イケメンで大奥からの人気がとても高かった
- 肥満体だったので正座が苦手だった
- 絶世の美女に惚れてストーカー行為を繰り返したうえに、強引に自分の妾としたことで、人気が落ちる
日米和親条約を締結して鎖国政策を終わらせただけではなく、安政の改革によって幕藩体制を崩壊させたことで、幕府が滅亡するきっかけを作ってしまった正弘は無能だと評価されることがあります。
正弘は欧米列強の脅威に対抗するには、従来の幕府の政策では通用しないことを分かっていました。
実力のある諸大名と有能な人材を登用した正弘の政策は、保守派の人には弱腰に見え「八方美人」と批判されましたが、それまでの慣習を破って正弘が登用した勝海舟は、その後の歴史で重要な役割を果たしています。
気難しいことで有名な徳川斉昭(なりあき)ですら「正弘がいなくては何事も進まない」と嘆くほど、調整役として上手に振る舞っていた正弘は「収拾の偉才」と呼ばれました。
有能で人望があった正弘が長生きしていたら、幕末の歴史は変わっていたかもしれません。