源義経(みなもとのよしつね)といえば、「鵯越(ひよどりごえ)の逆落とし」や「八艘飛び」など数々の伝説を残しながら源平の合戦で大活躍。
しかし、兄の源頼朝に疎まれて自害に追い込まれた悲劇の英雄として有名ですが、どんな人物だったのでしょうか。
平氏打倒のために協力することを約束しながら、なぜ互いに憎しみ合うようになってしまったのでしょう。
この記事では源義経についてどんな人物だったのか、簡単にわかりやすく紹介してみたいと思います。
目次
源義経のプロフィール
- 源義経(みなもとのよしつね)
- 幼名:牛若丸(うしわかまる)
- 稚児名:遮那王(しゃなおう)
- 父:源義朝(河内源氏の棟梁)
- 母:常盤御前(源義朝の側室)
- 享年31(1159年~1189年閏4月30日)
源義経は何をした人?
源平の争乱における最大の功労者でありながら認められず、非業の死を遂げた源義経の生涯とはどのようなものだったのでしょうか。
義経の生い立ち
平安時代末期、今まで権力を独占していた貴族の勢力が衰えると、各地で武士が台頭するようになりました。
なかでも、河内源氏の棟梁である源義朝と伊勢平氏の棟梁である平清盛が対立するようになります。
1159年、源氏と平氏が衝突した平治の乱が起こると、清盛が勝利して武士の頂点に立ちました。
平治の乱に敗れた源氏は処罰され、後継者である源頼朝は伊豆へ流罪となります。
平治の乱が起こった1159年、源義経は源義朝の9男として生まれ、牛若丸と命名されました。
牛若丸は11歳で京都山中の鞍馬寺に預けられ、遮那王と名乗って育ちましたが、義朝の敵である平氏打倒を心に誓い、密かに武芸の鍛錬に励んだとされています。
一方、平治の乱に勝利した清盛は官位を得て上級貴族の仲間入りを果たし、一門を次々に高位高官に取り立て、莫大な富と強大な権力を握っていました。
朝廷を支配するようになった清盛は、娘の徳子を後白河法皇の第7皇子である高倉天皇に入内させて、生まれた皇子を強引に即位させました。
安徳天皇の祖父として君臨するようになった清盛は、「平氏にあらずんば人にあらず」といわれるほど、絶大な権勢を誇るようになります。
そのころ、出家を拒否して鞍馬寺から逃げ出した遮那王は、自らの手で元服を行い、源義経と名乗るようになりました。
義経と治承・寿永の乱
1180年、奥州藤原氏の当主である藤原秀衡を頼って平泉にいた義経のもとに、伊豆に流されていた異母兄の源頼朝が平氏打倒を掲げて挙兵したという知らせが届きます。
知らせを聞いた義経は、わずかな従者を率いて頼朝のもとへ向かいました。
富士川の戦いで勝利した頼朝と黄瀬川の陣で初めて対面した義経は、これまでの苦難を語り合って涙を流し、平氏打倒のために協力することを誓います。
義経と範頼(義朝の6男)に軍の指揮を任せた頼朝は、鎌倉に拠点を置いて東国の管理に専念しました。
このころ、朝廷の地位を独占し、貴族と同じように厳しい年貢を取り立てる平氏に不満を抱いた武士が全国各地で挙兵するようになっていました。
貴族のやり方を踏襲して反感を買った平氏に対して頼朝は、貴族のものとされていた土地の支配権を武士に与えることで信頼を得ていきます。
1181年、平清盛が亡くなると、平氏の権勢は急速に衰えていきました。
1183年、倶利伽羅峠の戦いで木曽義仲に敗れた平氏は京都から逃れ、勢力基盤の西国で力を蓄えて再起をはかります。
平氏を京都から追いだした義仲は、後白河法皇と対立したことと、軍勢が狼藉を働いたことで反感を買い、頼朝に義仲追討が命じられました。
1184年、宇治川の戦いで義仲の軍勢を討った義経は、一躍その名を上げました。
そして、平氏追討の命令を受けた義経は、西国で勢力を回復して福原(兵庫県神戸市)まで迫っていた平氏の大軍に挑みます。
そのころ、平氏は瀬戸内海と険しい山に挟まれた天然の要害である一の谷に陣を張っていました。
一の谷に向かった義経は本隊と別れ、70騎の精兵を率いて平氏軍の背後にまわり、険しい崖の上から平氏軍のいる谷底へと一気に駆け下りました。
「鹿が通れるなら馬も通れるだろう」と崖下りを強行した奇襲は、「鵯越の逆落とし」と呼ばれています。
まさか崖を下ってくることはないだろうと油断していた平氏軍は大混乱に陥り、海へと敗走していきました。
一の谷の戦いに勝利した義経は、後白河法皇から検非違使(京都の治安維持にあたる役職)に任命されます。
義経は官位を受けることは源氏にとって名誉なことだと考えていましたが、頼朝は許可を得ずに官位を受けたことに激怒し、平氏追討軍から外してしまいました。
その後、頼朝は新たな追討軍を派遣しましたが苦戦を強いられたため、義経は再び出陣するように命じられます。
そのころ、平氏は屋島(香川県高松市)を本拠地とし、瀬戸内海の水軍のほとんどを支配下に置いて、体制の立て直しをはかっていました。
源氏軍の苦戦が続いていたことから出陣を急いだ義経は、わずか5艘の船で暴風雨のなかを出港し、阿波国勝浦に上陸して平氏軍の背後に忍び寄り、周辺の民家に火を放って大軍が襲って来たようにみせかけて攻め込みます。
海上からの攻撃を想定していた平氏軍は、義経の奇襲によってまたもや大混乱に陥り、海へと敗走しました。
1185年、屋島の戦いに義経が勝利すると、伊予の河野水軍が義経に合流することを求めるなど、瀬戸内海の水軍は源氏の方が平氏より優勢であると考えるようになります。
水軍を味方につけた義経は840艘の船を率いて平氏の拠点である彦島へ向かい、ついに源氏と平氏の最後の決戦である壇ノ浦の戦いが始まりました。
開戦当初、西から東への潮の流れにのった平氏軍が攻め込んで来たので、義経は平氏軍の船頭を狙い討つことで応戦していましたが、潮の流れが逆転すると一気に反撃に出ます。
その結果、平氏軍の主力だった阿波水軍300艘が源氏方に寝返り、平氏軍は窮地に陥ってしまいました。
このとき、平氏の猛将である平教経は義経を捕らえて道連れにしようとしましたが、義経は船から船へと飛び渡って逃げた(「八艘飛び」伝説)とされています。
敗北を悟った平氏一門は、安徳天皇と天皇家の正統を表す「三種の神器」もろとも次々に入水して滅亡しました。
頼朝の挙兵から壇ノ浦で平氏一門が滅亡するまでの内乱のことを治承・寿永の乱といいます。
頼朝と義経の対立
壇ノ浦の戦いで平氏が滅亡した後、源頼朝は許可を得ずに官位を受けた者に、東国への帰還を禁じるという厳しい処分を下しました。
さらに、梶原景時から「義経が平氏追討の功績を自分一人のものにしている」という報告が届き、頼朝は義経に不信感を抱くようになります。
一方、頼朝の気持ちを知らない義経は捕虜を護送して鎌倉に向かっていましたが、頼朝の命令によって鎌倉に入ることを許されませんでした。
義経は鎌倉郊外の山内荘腰越(現在の鎌倉市)にある満福寺で鎌倉に入る許可を待ちましたが、返答はいっこうにありません。
そのため、義経は頼朝に「腰越状」と呼ばれる手紙を書き、情に訴えて許しを乞いました。
- 義経が許可を得ずに官位を受けたこと
- 梶原景時の意見を聞かずに独断で物事を進めたこと
- 頼朝を通さずに東国武士を処罰したこと
など、義経の自由勝手な振る舞いに対して怒りを覚えていた頼朝は返事を書きませんでした。
謀反を起こした義経
鎌倉へ入ることを許されなかった義経は京都へ帰ることにしましたが、このとき「鎌倉に不満がある者は私についてこい」と言い放ちました。
これを聞いた源頼朝は義経の所領を取り上げて、追い打ちをかけます。
さらに、義経が京都で謀反を企てているのではないかと疑った頼朝は、義経の身辺を探るために密偵を放ちました。
頼朝が自分を狙っていることを知った義経は後白河法皇から頼朝追討の院宣を得て挙兵したが、頼朝が大軍を率いて鎌倉を出発すると、義経追討の院宣が出されたため、京都から逃亡します。
義経の最後
1187年、義経は藤原秀衡を頼って平泉に身を寄せていましたが、秀衡が亡くなり、後を継いだ藤原泰衡に、頼朝は義経を捕らえるように圧力をかけました。
秀衡は「義経を主君として仕え、兄弟が結束して、頼朝の攻撃に備えるように」と遺言を残していましたが、頼朝の圧力に屈した泰衡は義経の館を襲撃します。
義経は武蔵坊弁慶などと必死に防戦しましたが泰衡軍に囲まれ、自害しました。
源義経のエピソード・逸話
本当にイケメンだった?
義経といえば色白の美男子というイメージが定着していますが、肖像画をみる限り美男子とはいえないような……。
『平家物語』には「色白で背が低い出っ歯」とされていますが、これは平氏方の武将が証言していることなので、わざと悪くいっている可能性もありますが、他にも義経が非力だったとされる記述もあります。
義経生存説
義経が非業の死を遂げたことから、義経は衣川で死んでおらず、奥州から蝦夷地に逃がれたという生存説が生み出されました(義経北方伝説)。
そのなかでも、蝦夷地を抜け出して大陸に渡った義経が成吉思汗(ジンギスカン)となったとする「義経=チンギス・ハン説」という奇妙な説があります。
源義経のまとめ
- 源義朝の9男として生まれ、牛若丸と命名される
- 11歳で鞍馬寺に預けられ、遮那王と名乗って育つ
- 出家を拒否して鞍馬寺から逃げ出し、藤原秀衡を頼って平泉に身を寄せる
- 挙兵した頼朝のもとに駆けつけ、平氏打倒のために協力することを誓う
- 宇治川の戦いで木曽義仲を討つ
- 奇策を用いて一の谷の戦い、屋島の戦いに勝利し、壇ノ浦の戦いで平氏を滅ぼす
- 許可を得ずに官位を受けたことと、自由勝手な振る舞いをしたことで頼朝の怒りを買う
- 頼朝追討のために挙兵するが、後白河法皇が義経追討の院宣を出したため、逃亡する
- 藤原泰衡の裏切りによって自害する
源平の争乱で大活躍した義経は、戦上手ゆえの独断専行によって、頼朝との間に亀裂が生じ、非業の死を遂げることになりました。
日本の歴史のなかでも悲劇の英雄として人気が高い義経は、後白河法皇から判官(ほうがん)に任じられていたことから、弱いものに同情して応援することを「判官贔屓」といいます。
義経のイメージが美男子とされていることや、チンギス・ハンになって生き延びたとされたのも判官贔屓なのかもしれません。