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	<title>江戸時代の有名な人物一覧【武士・大名など】｜歴史上の人物外伝</title>
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	<description></description>
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		<title>原敬は何した人？どんな人？平民宰相と呼ばれ暗殺された政治家の生涯</title>
		<link>https://rekishigaiden.com/haratakashi/</link>
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		<dc:creator><![CDATA[まさむね]]></dc:creator>
		<pubDate>Mon, 23 Nov 2020 03:43:27 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[江戸時代]]></category>
		<category><![CDATA[明治時代]]></category>
		<category><![CDATA[大正時代]]></category>
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					<description><![CDATA[歴史の教科書で原敬という名前を聞いたことがあるでしょう。 彼は「平民宰相」と呼ばれた政治家でした。 なぜそのように言われていたのでしょうか。 ここでは原敬がどのような宰相だったのか見ていきましょう。 原敬のプロフィール ]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>歴史の教科書で原敬という名前を聞いたことがあるでしょう。</p>
<p>彼は「平民宰相」と呼ばれた政治家でした。</p>
<p>なぜそのように言われていたのでしょうか。</p>
<p>ここでは原敬がどのような宰相だったのか見ていきましょう。</p>
<h2>原敬のプロフィール</h2>
<table class="cps-table03">
<tbody>
<tr>
<th>
				生誕
			</th>
<td>
				1856年3月15日
			</td>
</tr>
<tr>
<th>
				生誕地
			</th>
<td>
				陸奥国岩手郡本宮村（現在の岩手県盛岡市本宮）
			</td>
</tr>
<tr>
<th>
				名前
			</th>
<td>
				原敬（はら たかし）<br />
※（はら けい）とも呼ばれる<br />
幼名：健次郎　<br />
号：一山、逸山
			</td>
</tr>
<tr>
<th>
				死没
			</th>
<td>
				1921年11月4日（65歳没）
			</td>
</tr>
</tbody>
</table>
<h2>原敬は何をした人？</h2>
<h3>生い立ちから戸主になるまで</h3>
<p>原敬は盛岡藩士　原直治の次男として生まれました。</p>
<p>原家は盛岡藩の家老職を務めた家柄でした。</p>
<p>生家は戊辰戦争で新政府軍に敵対したことで、盛岡藩は賠償金を支払うこととなり、原家も土地や屋敷を売却し、菓子商売などで生計を立てることになりました。</p>
<p>敬は1872年家が盗難にあったため学費に困り、無料のカトリック神学校に入り、翌年には「ダビデ」の洗礼名を受けています。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img decoding="async" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">キリスト教の影響を受けていたのですね。</div>
</div></div>
<p>1875年敬は戸主として平民籍に編入されました。</p>
<p>生家もすでに士族ではなかったため、戸籍には「士農工商」の「商」と記されています。</p>
<p>しかし敬は誇り高く、いつも自分を卑しくするような態度は取らなかったそうです。</p>
<h3>新聞社へ入社</h3>
<p>1876年に司法省法学校を受け、2番の成績で合格し在学中も成績は良好でしたが1879年に退校処分にあっています。</p>
<p>これは寄宿舎の待遇改善を求めたことに対する処罰だったそうです。</p>
<p>敬はその年郵便報知新聞社に入社しました。</p>
<p>1881年の明治十四年の政変をきっかけに<a href="https://rekishigaiden.com/okuma/">大隈重信</a>派が新聞社を買収し、<a href="https://rekishigaiden.com/inukaituyosi/">犬養毅</a>や尾崎行雄が社に乗り込んできたため、これに反発した敬は社を辞めました。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img decoding="async" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">明治十四年の政変とは、明治時代の政治事件で大隈重信一派が明治政府中枢から追放されたものです。</div>
</div></div>
<h3>政治家から首相へ</h3>
<p>外務省に入った敬は外交官として務めます。</p>
<p>後に農商務省に移り<a href="https://rekishigaiden.com/mutsumunemitsu/">陸奥宗光</a>や<a href="https://rekishigaiden.com/inouekaoru/">井上馨</a>らの信頼を得ました。</p>
<p>その後また新聞社へ復帰し1898年には<span class="marker">大阪毎日新聞の社長に就任</span>しています。</p>
<p>敬は発行部数を大幅に上げることに成功しました。</p>
<p>そこを<a href="https://rekishigaiden.com/itohirofumi/">伊藤博文</a>の説得で敬は政界へと入っていくのでした。</p>
<p>1900年敬は立憲政友会の初代幹事長や逓信大臣を務めます。</p>
<p>1901年首相として実権を握った桂太郎が組閣し、敬は桂内閣の方針に巡る分裂の危機を防ぎ、松田正久とともに政友会の党務を担いました。</p>
<p>また地方政策では、鉄道敷設などの利益誘導と引き換えに、支持獲得を目指す集票手段を暗殺された星から引き継ぎ、政友会の党勢を拡大しました。</p>
<p>そうやって党内を掌握した敬は、伊東博文らと融和と対決を使い分ける路線をとって党の分裂をしのぎました。</p>
<p>しかし敬の積極主義は「我田引鉄」と呼ばれ、利益誘導型の政治を生み出すことになり、現代につながる日本の政党政治と利益誘導の構造を作り上げることとなりました。</p>
<p>1906年第1次西園寺内閣内務大臣に就任、1911年には第2次西園寺内閣内務大臣を務めるとともに8月から鉄道院総裁になっています。</p>
<p>そして敬は1914年<span class="marker">第3次内閣総理大臣となりました。</span></p>
<h3>首相の任務と暗殺</h3>
<p>敬は内閣総理大臣が海軍大臣を代行することを提案しました。</p>
<p>陸軍はこれに反対しましたが、陸軍大臣は代行しないという約束で海軍大臣の代行をすることになりました。</p>
<p>また、教育政策では高等教育の拡張に力を入れました。</p>
<p>さらに軍事費にも多額の予算を配分し、1921年の予算は1917年の予算の2倍を超える15億8千万円にまで膨れ上がりました。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img decoding="async" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">これには流石に野党憲政会や、貴族院からの多数の反対意見が出てもおかしくないですね。</div>
</div></div>
<p>敬が首相になる前の民衆の期待は大きいものでしたが、就任後の彼の政策は財閥向けのものでした。</p>
<p>その上、民衆が望んでいた普通選挙法の施行に否定的だったことなどで人々はがっかりしていたのです。</p>
<p>そして1921年11月関西での政友会大会に出席するために東京駅に到着直後、中岡艮一（なかおかこんいち）により殺害されてしまったのでした。</p>
<p>ほぼ即死でした。</p>
<h2>原敬のエピソード・逸話</h2>
<h3>実力のある知事を目指して</h3>
<p>敬は内務大臣時代に、藩閥によって任命された当時の都道府県知事を集めてテストを実施しました。</p>
<p>そして東京帝国大学卒の学歴を持つエリートたちに知事たちを変えていきました。</p>
<p>こうして真の実力のあるものを知事にしていったのです。</p>
<h3>教育制度</h3>
<p>1918年原内閣は「高等諸学校創設及拡張計画」を実施しました。</p>
<p>その内容は官立旧制高等学校10校、官立高等工業学校6校、官立高等農業学校4校、官立高等商業学校7校、外国語学校1校、薬学専門学校1校の新設と、帝国大学4学部の設置、医科大学5校の昇格、商科大学1校の昇格でした。</p>
<p>この計画はほぼ実現され、この教育機関の大半は地方都市に分散設置されました。</p>
<p>また私立大学では1920年に大学令の厳格な要件にも関わらず、慶應義塾大学、早稲田大学、明治大学、法政大学、中央大学、日本大学、國學院大学、同志社大学の旧制大学への昇格が認可され、その後も多くの私立大学が昇格しました。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img decoding="async" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">これからの日本を若い有能な学生が支えることを期待していたのでしょう。</div>
</div></div>
<h3>平民宰相</h3>
<p>原敬は盛岡藩の家老の出自でした。</p>
<p>ですから公家出身の総理大臣よりも家柄は良かったのです。</p>
<p>しかし分家して平民となりました。</p>
<p>大概の総理大臣になる人は華族出身でしたから、敬は平民から総理になった<span class="marker">平民宰相</span>と呼ばれたのです。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img decoding="async" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">時代が遡れば、敬は偉い武家の出身なんですけどね。</div>
</div></div>
<h2>3行でわかる原敬のまとめ</h2>
<div class="kaisetsu-box3">
<div class="kaisetsu-box3-title">まとめ</div>
<ul>
<li>第3次内閣総理大臣</li>
<li>教育や軍事に力を入れていた</li>
<li>平民宰相と呼ばれた</li>
</ul>
</div>
<p>平民宰相と呼ばれた原敬の生涯を見てきました。</p>
<p>新聞社から政治家へなり、いろいろな事業を手がけた人でしたね。</p>
<p>彼が暗殺された時、病床にあった山縣有朋はショックで熱を出し、夢でうなされるほどだったそうです。</p>
<p>そういう人をむざむざ失ってしまったことはとても残念なことですね。</p>
<p>原敬にはもっとやりたいことがあったはずです。</p>
<p>彼が生きていたら、現代はどのようになっていたのでしょうか。</p>
]]></content:encoded>
					
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			</item>
		<item>
		<title>北里柴三郎は何した人？どんな人？功績と野口英世との関係</title>
		<link>https://rekishigaiden.com/kitazatoshibasaburo/</link>
					<comments>https://rekishigaiden.com/kitazatoshibasaburo/#respond</comments>
		
		<dc:creator><![CDATA[まさむね]]></dc:creator>
		<pubDate>Wed, 11 Nov 2020 02:36:47 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[江戸時代]]></category>
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					<description><![CDATA[日本の近代医学の道を切り開いた北里柴三郎（きたざと しばさぶろう）。 2024年に20年ぶりに紙幣が新しくなりますが、その千円札の肖像画に採用されると発表され、今大きな注目を集めています。 何となく医学ですごいことをした]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>日本の近代医学の道を切り開いた北里柴三郎（きたざと しばさぶろう）。</p>
<p>2024年に20年ぶりに紙幣が新しくなりますが、その千円札の肖像画に採用されると発表され、今大きな注目を集めています。</p>
<p>何となく医学ですごいことをした！というのはご存じだと思いますが、具体的には何をした人なのでしょうか？</p>
<p>簡単にまとめてみました。</p>
<h2>北里柴三郎のプロフィール</h2>
<div class="simple-box1">
<ul>
<li>日本の医学者・細菌学者</li>
<li>享年78歳（1853年1月29日生 、1931年6月13日没）</li>
<li>北里研究所を設立、慶応義塾大学医学科 初代医学科長</li>
</ul>
</div>
<h2>北里柴三郎は何した人？</h2>
<p>北里柴三郎は、現在の熊本県阿蘇郡小国町で庄屋の長男として生まれました。</p>
<p>子どもの頃はとてもわんぱくで、武士の家系であったこともあり、将来は軍人か政治家になりたいと思っていました。</p>
<p>しかし両親の勧めもあり、18歳のときに熊本医学校に入ります。</p>
<h3>現在の東大医学部で学ぶ</h3>
<p>次第に医学に魅了され、もっと専門的に学びたいと思い、<span class="marker">東京医学校（現在の東京大学医学部）に進みました。</span></p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img decoding="async" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
兄弟が多かったので仕送りはなく、牛乳会社でアルバイトをしながら勉学に励んだそうです。
</div>
</div></div>
<p>この頃、日本は開国したばかりで、外国からコレラなどの伝染病が入ってきました。</p>
<p>日本でもコレラで多くの人が亡くなり、柴三郎の二人の兄も犠牲になりました。</p>
<p>この経験から「病人を救う医療も大切だが、医療の使命は病気を予防すること」と確信し、医学の道に進むことを決意。</p>
<p>卒業後は内務省衛生局（現在の厚生労働省）で研究者として働きました。</p>
<p>このときの研究熱心な態度が周囲に認められ、伝染病の研究で世界トップのドイツに留学することになったのです。</p>
<h3>破傷風の研究に取り組む</h3>
<p>1886年から6年間ベルリン大学に留学し、病原微生物学研究の第一人者であるロベルト・コッホに師事、予防医学の研究に励みます。</p>
<p>その中で破傷風という病気に取り組むことになりました。</p>
<div class="concept-box6">
<p>破傷風とは、傷口から入った菌が出す毒素が原因で、全身が痙攣してしまう病気です。</p>
<p>熱湯にも消毒薬にも耐えて生き延びるため、致死率が高く恐れられていました。</p>
</div>
<p>柴三郎は熱心に研究し、1889年に、<span class="marker">世界で初めて破傷風菌の純粋培養に成功</span>しました。</p>
<p>これだけでもすごいことですが、さらにその治療法の研究へと突き進みます。</p>
<p>柴三郎は、破傷風菌が出す毒素を少しずつ動物に注射してみました。</p>
<p>すると毒への耐性ができて、大量の毒素を注射しても病気にならないものが出てきました。</p>
<p>病気にならなかった動物を調べると、血液の中に破傷風が出す毒素を消す成分が見つかりました。</p>
<p>その成分を破傷風にかかっている人に注射すると、病気が治ったのです。</p>
<p>この治療法を「血清療法」と言い、<span class="marker">破傷風の血清療法の発明</span>で柴三郎は世界的な学者となりました。</p>
<h3>日本の細菌学の父</h3>
<p>日本に帰国後も熱心に伝染病の研究をし、多くの業績を残しました。</p>
<p>例えば、ペストが蔓延している香港に訪れペスト菌を発見したり、狂犬病・インフルエンザ・赤痢などの血清開発にも取り組みました。</p>
<p>このような数々の発見から<span class="marker">「日本の細菌学の父」と呼ばれる</span>ようになりました。</p>
<div class="m50"></div>
<p>また、伝染病専門の研究所をつくることに取り組みました。</p>
<p>これを支援してくれたのは、あの有名な<a href="https://rekishigaiden.com/fukuzawayukichi/">福沢諭吉</a>です。</p>
<p>1914年には北里研究所を設立し、多くの細菌学者を育てました。</p>
<p>その指導は非常に厳しかったようで、弟子たちからは「ドンネル先生」と呼ばれたそうです。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img decoding="async" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
「ドンネル」とははドイツ語で「雷」という意味で、つまり「雷おやじ」ということですね(笑)。
</div>
</div></div>
<p>門下生には黄熱病の研究で有名な<a href="https://rekishigaiden.com/noguchihideyo/">野口英世</a>もいました。</p>
<p>教育の分野にも尽力し、慶應義塾大学の医学科創設に関わり、初代医学科長に就任しています。</p>
<p>そして、1931年に脳溢血により生涯を終えましたが、1962年に研究所の創設50周年を記念して北里大学も建学されています。</p>
<h2>北里柴三郎のエピソード・逸話</h2>
<p>北里柴三郎は、留学時代に第1回ノーベル賞にノミネートされています。</p>
<p>当時ヨーロッパで大流行していたジフテリアについて、師事していたコッホの弟子・ベーリングと共に研究していました。</p>
<p>そしてジフテリアの血清療法を発見し、大きな成果を上げました。</p>
<p>この研究で<span class="marker">ノーベル賞候補になりましたが、なぜか受賞したのはノミネートされていなかったベーリングの方でした。</span></p>
<p>その理由は、</p>
<ul>
<li>ベーリングのサポート役と見なされてしまった</li>
<li>当時は欧米中心の考え方で、ノーベル賞受賞者も欧米人ばかりだった</li>
<li>ドイツが国を挙げてベーリングを応援していた</li>
</ul>
<p>などと言われています。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img decoding="async" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
とても残念なお話ですね……。
</div>
</div></div>
<h2>3行でわかる北里柴三郎のまとめ</h2>
<div class="kaisetsu-box3">
<div class="kaisetsu-box3-title">まとめ</div>
<ul>
<li>予防医学を熱心に研究し、世界で初めて破傷風の血清療法を開発</li>
<li>帰国後は研究所を開設し、後継者の育成にも取り組む</li>
<li>第1回ノーベル賞にノミネートされるが、受賞は逃す</li>
</ul>
</div>
<p>北里柴三郎の偉大な研究により多くの命が救われ、今もなお、現代医学に大きな影響を与えています。</p>
<p>この功績が讃えられ、新札のデザインにも選ばれたようです。</p>
<p>新しい千円札が発行されたときは、柴三郎のおかげで日々健康でいられることに感謝して使ってみてはいかがでしょうか？！</p>
]]></content:encoded>
					
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			</item>
		<item>
		<title>正岡子規は何をした人？どんな人？代表作や生涯をまとめました</title>
		<link>https://rekishigaiden.com/masaokashiki/</link>
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		<dc:creator><![CDATA[まさむね]]></dc:creator>
		<pubDate>Fri, 23 Oct 2020 01:21:13 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[江戸時代]]></category>
		<category><![CDATA[明治時代]]></category>
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					<description><![CDATA[「柿食えば金が鳴るなり法隆寺」という俳句で有名な正岡子規（まさおかしき）。 正岡子規は亡くなるまでに2万以上の句を残したすごい人でした。 ではこの正岡子規はどのようにして俳句と出会い、どのような作品を残したのでしょうか。]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>「柿食えば金が鳴るなり法隆寺」という俳句で有名な正岡子規（まさおかしき）。</p>
<p>正岡子規は亡くなるまでに2万以上の句を残したすごい人でした。</p>
<p>ではこの正岡子規はどのようにして俳句と出会い、どのような作品を残したのでしょうか。</p>
<p>この記事では正岡子規はどんな人物だったのか、その生涯についてまとめてみました。</p>
<h2>正岡子規のプロフィール</h2>
<table class="cps-table03">
<tbody>
<tr>
<th>生誕</th>
<td>1867年10月14日</td>
</tr>
<tr>
<th>生誕地</th>
<td>伊予国温泉郡藤原新町（現在の愛媛県松山市花園町）</td>
</tr>
<tr>
<th>名前</th>
<td>幼名：正岡処之助（ところのすけ）後に升（のぼる）<br />
本名：正岡常規</td>
</tr>
<tr>
<th>没年</th>
<td>1902年9月19日　34歳没</td>
</tr>
</tbody>
</table>
<h2>正岡子規は何をした人？</h2>
<h3>多感な幼少期</h3>
<p>正岡子規は松山藩主の正岡常尚と八重の間の長男として誕生しました。</p>
<p>母の八重は松山藩の儒者大原観山の長女でした。</p>
<p>1872年子規が幼い時に父が亡くなります。</p>
<p>子規は家督をついで大原家と伯父の加藤恒忠の後見を受けることになりました。</p>
<p>それからは祖父観山の私塾に通い、漢書の素読を習います。</p>
<p>1873年には寺子屋式の末広学校に通い、1875年には勝山学校に転校しました。</p>
<p>この年祖父の観山が亡くなり、子規は土屋久明に漢学を習いました。</p>
<p>1878年には初めて漢詩を作り土屋久明に添削を受けています。</p>
<p>この頃から子規は漢詩や戯作、軍談や書画などを好み、友人と回覧雑誌を作り、試作会を開いたりしていたそうです。</p>
<p>また自由民権運動に影響を受け、まだ11歳というのに政談にも興味を持っていました。</p>
<h3>学生時代</h3>
<p>1880年子規は旧制松山中学（現在の松山東高等学校）に入学しました。</p>
<p>しかし1883年に受験勉強のために同校を中退し上京しています。</p>
<p>そして共立学校（現在の開成高等学校）に入学し、翌年旧藩主家の給費生となり東大予備門（現在の東大教育学部）に入学することができました。</p>
<p>そして常盤会寄宿舎に入っています。この頃から俳句を作り始めました。</p>
<p>ここでの同窓生に<a href="https://rekishigaiden.com/natumesoseki/">夏目漱石</a>や<a href="https://rekishigaiden.com/kumasugu/">南方熊楠（みなみかた くまぐす）</a>がいます。</p>
<p>1889年に常盤会の友人２人で菊池健二郎の実家の水戸まで徒歩で旅をしました。</p>
<p>その後子規は初めて喀血（かっけつ）しました。</p>
<p>これを機に子規は自分のことを「子規」と名乗るようになります。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img decoding="async" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">「子規」はホトトギスの異称で、血を吐くまでなくと言われていたホトトギスに喀血した自分を例えたものでした。</div>
</div></div>
<p>同時に自分の死を意識した時でもありました。</p>
<p>1890年帝国大学哲学科に進学しましたが、文学の方に興味をそそられ翌年には国文科に転科しました。</p>
<h3>新聞記者へ</h3>
<p>1892年大学を中退後、子規は伯父の加藤拓川の紹介で新聞「日本」の記者となりました。</p>
<p>そこで家族を呼び寄せ、文芸活動の拠点としています。</p>
<p>1893年には「獺祭書屋俳話（だっさいしょおくはいわ）を連載し、<span class="marker">俳句の革新運動を始めました。</span></p>
<p>1894年に日清戦争が起こると翌年には近衛師団付きの従軍記者として遼東半島に渡りましたが、到着した2日後に下関条約が結ばれ帰国することとなります。</p>
<p>子規は帰路の船中で喀血して重体となり神戸病院に入院しました。</p>
<p>その後須磨保養院で療養し、松山に帰郷しています。</p>
<h3>俳句と迫り来る最期</h3>
<p>子規は俳句分類や与謝蕪村などを研究し俳句の世界に大きく貢献しました。</p>
<p>そして松山に教師として赴任していた<a href="https://rekishigaiden.com/natumesoseki/">夏目漱石</a>の下宿に同宿して、療養をしながら俳句会などを開いていました。</p>
<p>東京に戻る途中から腰の痛みが出始めました。</p>
<p>結核菌が脊椎を侵す脊椎カリウスを発症したのです。</p>
<p>悪化していく体調の一方で、短歌でも「歌よみに与ふる書」を新聞「日本」に連載し、万葉集を高く評価し根岸短歌会を主催し<span class="marker">短歌の革新に務めました。</span></p>
<p>この根岸短歌会は後に伊藤左千夫らにより短歌結社「アララギ」へと発展を遂げるのでした。</p>
<div class="jin-yohaku30"></div>
<p>病気の方は悪くなるばかりで、とこに伏すことが多くなり、脊椎カリウスの手術も数度受けましたが良くならず、背中に穴があき膿が流れ出るほどにまでなりました。</p>
<p>1899年夏以降は座ることもできず、この頃から3年間ほぼ寝たきりの生活が続きました。</p>
<p>それでも俳句や、短歌を書き続け、高浜虚子や伊藤左千夫らに指導をし続けていたと言います。</p>
<p>1901年病に伏せつつ「仰臥漫録」をつけ始め、弱気になりイギリスへ留学中の夏目漱石に便りを送っていますが、漱石もその頃ひどい神経衰弱に陥り返事を書く余裕などありませんでした。</p>
<p>漱石は子規の死を聞いてとても後悔していたと言います。</p>
<p>自分が返事を書いていれば、少しは病床の子規への慰めになっていたのではなかっただろうかと。</p>
<p>その後子規は「病牀六尺」を書いていますが、これには少しも暗い気持ちは表現せず、ただ死に臨んだ自分の体と精神を客観的に見て記録として書かれたもので、現在まで読み続けられています。</p>
<p>そして辞世の句として3つの俳句を残し、1902年9月19日息を引き取りました。</p>
<p>34歳とまだ若い死でした。</p>
<h2>正岡子規のエピソード・逸話</h2>
<h3>大の野球好き</h3>
<p>子規は日本に野球が導入された頃からの選手で、1889年喀血して辞めるまで<span class="marker">野球の捕手を務めていました。</span></p>
<p>あまりに好きすぎて当時「ベースボール」と言われていたスポーツに自分の名前から「野球（のぼーる）」という雅号を用いたほどでした。</p>
<p>それ以外の野球用語についてもなんと子規が日本語訳をしたものばかりでした。</p>
<p>例えば、バッターを打者、ランナーを走者、デッドボールを死球、ストレートを直球など<span class="marker">今でも正式に使われている言葉の生みの親</span>だったのです。</p>
<p>そんな正岡子規は野球についてこう詠んでいます。</p>
<p>「まり投げて　見たき広場や　春の草」</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img decoding="async" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">春の草が生えてきた広場を見て、まり（ボール）を投げて野球をやりたいと思って詠んだ歌なのでしょう。</p>
<p>それほど野球を愛していたのですね。</p></div>
</div></div>
<h3>夏目漱石との友情</h3>
<p>正岡子規は<a href="https://rekishigaiden.com/natumesoseki/">夏目漱石</a>ととても仲が良く、松山に漱石がいた頃漱石の下宿に一緒にいたのですが、鰻をおごるといって漱石を連れ出し、結局代金を漱石に払わせたというエピソードがあります。</p>
<p>また、「柿食えば　鐘が鳴るなり　法隆寺」の名句は漱石の「鐘つけば　銀杏散るなり建長寺」という句への返礼の句でした。</p>
<h3>幼名を変えた理由</h3>
<p>子規の幼名は処之助ですが、この名前は藩の鉄砲指南役の竹内一兵衛という人がつけてくれたものでした。</p>
<p>しかし家族もこの名前があまり気に入っていなかったようです。</p>
<p>子規が学校へ行くようになると「トコロテン」と呼ばれてからかわれるようになりました。</p>
<p>それで名前を「升」に変えたのでした。</p>
<h2>3行でわかる正岡子規のまとめ</h2>
<div class="kaisetsu-box3">
<div class="kaisetsu-box3-title">まとめ</div>
<ul>
<li>「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」等の有名な俳句や短歌を残し、またそれを発展させた</li>
<li>若いうちから病気に悩まされながらも執筆活動をやめなかった</li>
<li>野球をこよなく愛していた</li>
</ul>
</div>
<p>若くして結核と闘いながら、俳句や短歌を普及させた正岡子規の生涯を見てきました。</p>
<p>自分が喀血してから死を意識しながらも、めげることなく執筆活動に打ち込んだ正岡子規の精神力に頭が下がります。</p>
<p>病床にあって、起き上がることができなくなっても最後まで俳句を作る続けた正岡子規は</p>
<p>「糸瓜咲て痰のつまりし仏かな」<br />
「痰一斗糸瓜の水もまにあはず」<br />
「をととひのへちまの水も取らざりき」</p>
<p>の3つを辞世の句として残しています。</p>
<p>そんな正岡子規の唯一弱音の吐ける友人だった夏目漱石は、子規の死後も「ホトトギス」を通じて彼と通じていったのでした。</p>
]]></content:encoded>
					
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			</item>
		<item>
		<title>二宮金次郎は何した人？銅像が薪を背負っている理由に驚愕！</title>
		<link>https://rekishigaiden.com/kinjiro/</link>
					<comments>https://rekishigaiden.com/kinjiro/#respond</comments>
		
		<dc:creator><![CDATA[まさむね]]></dc:creator>
		<pubDate>Sat, 10 Oct 2020 00:11:38 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[江戸時代]]></category>
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					<description><![CDATA[小学校の校庭に必ずと言っていいほど、背中に薪を背負って、歩きながら本を読んでいる少年の銅像があります。 随分勤勉な人なんだなと、この姿を見た人は多いと思います。 この銅像は二宮金次郎という人がモデルになっています。 では]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>小学校の校庭に必ずと言っていいほど、背中に薪を背負って、歩きながら本を読んでいる少年の銅像があります。</p>
<p>随分勤勉な人なんだなと、この姿を見た人は多いと思います。</p>
<p>この銅像は二宮金次郎という人がモデルになっています。</p>
<p>では二宮金次郎という人はなぜ校庭に銅像として立っているのでしょう。</p>
<p>一体何をした人なのでしょうか。</p>
<p>この記事ではその二宮金次郎について簡単にまとめてみました。</p>
<h2>二宮金次郎のプロフィール</h2>
<div class="simple-box1">
<ul>
<li>生誕：1787年9月4日</li>
<li>生誕地：相模国足柄上郡栢山村（現在の神奈川県小田原市栢山（かやま））</li>
<li>名前：二宮尊徳（「そんとく」と呼ばれていますが実際は「たかのり」と言います）・二宮金次郎（本人の署名には金治郎という字を使っています）</li>
<li>死没：1856年11月17日（享年70歳）</li>
</ul>
</div>
<h2>二宮金次郎は何をした人？</h2>
<p>二宮金次郎は<span class="marker">江戸時代に多くの農村を救った人で、農村改革の指導者でした。</span></p>
<h3>貧しかった幼少時代</h3>
<p>二宮金次郎が生まれた時は彼の家は裕福でしたが、5歳の時に暴風雨による川の決壊で財産である田畑や家を全て流されてしまいました。</p>
<p>その後、父の代わりに堤防工事を務めるのですがまだ12歳だった金次郎は、一人前に仕事ができないことが情けなく、夜には草鞋を作って配っていました。</p>
<div class="jin-yohaku50"></div>
<p>貧困の中で1800年金次郎の父が亡くなり、その2年後母も後を追うように亡くなってしまいました。</p>
<p>金次郎は伯父に預けられましたが、勉強はやめませんでした。</p>
<p>しかしこの伯父がケチで、金次郎が夜本を読むと油の無駄使いだと文句を言いました。</p>
<p>そこで金次郎は堤防にアブラナを植え、菜種油をとって本を読みました。</p>
<p>その上田植えの際に余った苗を水路に植えて、米1俵もの収穫を得たのでした。</p>
<p>その後親戚の元を回り、余耕を25俵も得て実家に戻り20歳で見事に家を再興させたのでした。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" decoding="async" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
このエピソードから薪を背負って本を読む銅像が作られたんですね。
</div>
</div></div>
<h3>五常講を開始</h3>
<p>母の実家が窮地に陥ると資金を援助しました。</p>
<p>その頃金次郎は武家奉公もしていたのですが、小田原藩の家老服部十郎兵衛が服部家の再建を頼んできました。</p>
<p>金次郎は五年計画の節約と財務整理によって千両もあった負債をなくし、その上300両の余剰金まで作ることに成功しました。</p>
<p>これだけのことをやってのけた金次郎でしたが、一切報酬は受け取りませんでした。</p>
<div class="jin-yohaku50"></div>
<p>この服部家で金次郎は使用人同士が助け合うための<span class="marker">「五常講」</span>という金融制度を始めました。</p>
<p>1820年この「五常講」は小田原藩の出資で藩全体の武士を対象とする制度となり、世界初の協同組合、信用組合だと言われています。</p>
<h3>桜町を再興</h3>
<p>次に小田原藩主大久保家の分家宇津家の旗本知行地の下野国芳賀郡桜町が荒廃しているため、その再興を藩主より命じられました。</p>
<p>藩からの補助金を一切断り、自分の財産と藩からの請負費用で低金利の融資を始めました。</p>
<p>領民に農機具の購入のためにお金を貸し、作物を売った利益を返済に充てていました。</p>
<p>これは農民たちが積極的に生産をする意欲を掻き立てるものでした。</p>
<div class="jin-yohaku50"></div>
<p>しかし一方で金次郎は藩の武士と領民の反対派によって、桜町領の再建を邪魔されています。</p>
<p>金次郎は成田山新勝寺にこもり断食修行を行い、「一円観」という真理を悟っています。</p>
<p>それは対立者の心を動かすことができるというものでした。</p>
<p>桜町領に戻った金次郎は、金次郎不在の間に領民たちが彼の偉大さを感じたことと、役人が交代したことで、再興事業を円滑に進めることができました。</p>
<p>その結果事業は成功し、年貢米の収穫量は2倍に増えていたのでした。</p>
<h3>報徳仕法で各地を再興</h3>
<p>金次郎の偉業を聞きつけた諸藩から、再興事業の依頼がたくさん舞い込んできました。</p>
<p>金次郎は<span class="marker">その晩年まで各地の再興事業を手がけました。</span></p>
<p>彼の心には「報徳思想」があったのです。</p>
<div class="concept-box6">
<p>「報徳思想」とは、父母や兄弟、天地などから受けている恩に感謝しこれに報いるべきだという思想です。</p>
</div>
<p>金次郎が行った再興事業はその精神に基づき<span class="marker">「報徳仕法」</span>と呼ばれました。</p>
<p>1842年金次郎は幕府に召し抱えられました。</p>
<p>そして日光奉行の配下で事業をしていましたが、病のために倒れ1856年現在の栃木県日光市で亡くなりました。</p>
<h2>二宮金次郎のエピソード・逸話</h2>
<h3>一斗枡の大きさを決めた</h3>
<p>小田原時代に役人の不正をなくすために、<span class="marker">一斗枡の大きさを統一させました。</span></p>
<p>これで役人が不正な升を使って年貢をごまかすことを防ぐことができたのでした。</p>
<h3>大飢饉を予測!?</h3>
<p>桜町時代にナスを食べたところ、夏前なのに秋の味がしたことから、この夏は冷夏になると予想し、村人たちにヒエを大量に植えさせました。</p>
<p>予想通りその年は冷夏で天保の大飢饉が起こりました。</p>
<p>しかし桜町ではヒエがたくさんあったため飢饉を逃れることができたのでした。</p>
<p>しかも残ったヒエを周辺の村に分けることもできたそうです。</p>
<h3>小谷三志との出会い</h3>
<p>成田山新勝寺にこもっていた頃、日本の宗教家であり社会教育家である小谷三志と出会い、</p>
<p>「農民や役人が自分に従わないと仕事を始めないと思っておられるようですが、一番大切なのは復興ではありませんか」</p>
<p>と言われ、役人や農民を改心させようとしていた自分に気づき、まず復興作業を始めなければと心に決めて桜町に戻ったそうです。</p>
<h3>4つの教え</h3>
<p>二宮金次郎の教えには、</p>
<div class="simple-box1">
<ul>
<li>至誠（嘘偽りのない真心のこと）</li>
<li>勤労（自分にできる仕事を励むこと）</li>
<li>分度（自分の立場や状況にふさわしい生活をすること）</li>
<li>推譲（分度によって生じた力やお金を将来や社会に譲ること）</li>
</ul>
</div>
<p>の4つがあります。</p>
<h3>日本近代資本主義を形成した!?</h3>
<p>ドイツの経済学者であるマックス・ウェーバーは、二宮金次郎が日本近代資本主義の形成を思想面で準備していたのかもしれないと語っている。</p>
<h2>4行でわかる二宮金次郎のまとめ</h2>
<div class="kaisetsu-box3">
<div class="kaisetsu-box3-title">まとめ</div>
<ul>
<li>幼い頃は貧しくも勉強熱心だった。</li>
<li>世界初の協同組合・信用組合である「五常講」を開始した。</li>
<li>各地の再興事業を手掛けた。</li>
<li>一斗枡の大きさを統一させた。</li>
</ul>
</div>
<p>二宮金次郎は幼い頃から学問に打ち込み、どうすれば社会が良くなるかをいつも考えていた人でした。</p>
<p>金次郎が再興事業を行ったのは9県と北海道の600村に及ぶというからすごいことですね。</p>
<p>二宮金次郎の「報徳思想」は<a href="https://rekishigaiden.com/shibusawaeichi/">渋沢栄一</a>やトヨタ自動車の創始者・豊田左吉、パナソニック創始者・<a href="https://rekishigaiden.com/kounosuke/">松下幸之助</a>など近代日本を代表する実業家たちに受け継がれています。</p>
<p>これを読んだら、学校で薪を背負って本を読んでいる少年の像を見かけた時、二宮金次郎の偉業と思想を思い出してくださいね。</p>
]]></content:encoded>
					
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		<item>
		<title>柳沢吉保はどんな人？徳川綱吉との関係や六義園の造成など</title>
		<link>https://rekishigaiden.com/yoshiyasu/</link>
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		<dc:creator><![CDATA[まさむね]]></dc:creator>
		<pubDate>Tue, 27 Aug 2019 09:38:41 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[江戸時代]]></category>
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					<description><![CDATA[江戸時代を通じて評判が悪い人物が何人かいます。 例えば汚職の象徴であるかのように言われる田沼意次。 「犬公方」徳川綱吉など。 主君の仇討ちを見事果たした赤穂浪士を切腹させた柳沢吉保（やなぎさわ よしやす）もその一人。 で]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>江戸時代を通じて評判が悪い人物が何人かいます。</p>
<p>例えば汚職の象徴であるかのように言われる田沼意次。<br />
「犬公方」<a href="https://rekishigaiden.com/tokugawatsunayoshi/">徳川綱吉</a>など。</p>
<p>主君の仇討ちを見事果たした赤穂浪士を切腹させた柳沢吉保（やなぎさわ よしやす）もその一人。</p>
<p>でも、彼は本当にそんなに悪い人物なのでしょうか？</p>
<h2>柳沢吉保のプロフィール</h2>
<p>柳沢吉保は1658年生まれ。</p>
<p>4代将軍<a href="https://rekishigaiden.com/tokugawaietsuna/">徳川家綱</a>の時代でした。</p>
<p>その年に真田信繁（後世の通称は幸村）の兄の真田信之が93歳で大往生しています。</p>
<p>戦国時代が薄れ、社会が安定して元禄の繁栄へと向かう時代でした。</p>
<p>父親の柳沢安忠は、<a href="https://rekishigaiden.com/tokugawaiemitsu/">徳川家光</a>の弟・徳川忠長の元家臣。</p>
<p>忠長が家光によって切腹させられたために浪人となった後、江戸城で働くようになります。</p>
<p>そのとき幼少時の<a href="https://rekishigaiden.com/tokugawatsunayoshi/">徳川綱吉</a>のお世話係になった縁で、綱吉が館林藩の藩主となったときに藩士となりました。</p>
<p>吉保が17歳のとき、安忠が引退したため家督を継ぎ、綱吉の小姓となりました。</p>
<h3>徳川綱吉に仕える</h3>
<p>1680年、吉保が22歳のとき、綱吉が第5代将軍となりました。</p>
<p>吉保はそのまま江戸城へと移って<span class="marker">綱吉に仕えます。</span></p>
<p>役職は小納戸。</p>
<p>将軍の日常のお世話をする係で、食事の毒味なども行います。</p>
<p>30歳になると綱吉の側用人となりました。</p>
<p>側用人は、将軍の命令を老中など家臣に伝えるという非常に重要な役目です。</p>
<p>また同時に1万2000石の禄高と、お取り潰しとなっていた佐貫藩を与えられて大名となります。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" decoding="async" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
異例の大出世といえるでしょう。
</div>
</div></div>
<p>さらに2年後には2万石加増、従四位下出羽守となり、その2年後には3万石、その2年後、吉保36歳のときには7万2000石にまで加増され、川越藩主となりました。</p>
<h3>最終的には15万石の大名に</h3>
<p>43歳のとき、綱吉から松平姓を許され、同時に「吉」の名を与えられます。</p>
<p>実は「吉保」と名乗るのは実際にはここからで、それまでは保明と名乗っていました。</p>
<p>その年に赤穂浪士の討ち入り事件が発生。</p>
<p>吉保は赤穂浪士の切腹を進言します。</p>
<p>46歳のとき、綱吉の次の将軍として綱吉の甥にあたる徳川家宣（当時は綱豊）が選ばれた結果、家宣の居城の甲府城に空きができました。</p>
<p>吉保はその甲府城を与えられて<span class="marker">15万1200石になり、甲斐に領地を得ました。</span></p>
<p>1709年、吉保が51歳のときに、<a href="https://rekishigaiden.com/tokugawatsunayoshi/">徳川綱吉</a>が死去。</p>
<p>予定通り家宣が将軍を継ぎました。</p>
<p>吉保はその時点で家督を長子の吉里に譲って隠居。</p>
<p>名も保山と変え、邸宅内の庭園の整備などにいそしんでいたようです。</p>
<p>57歳のときに江戸の屋敷で病没。</p>
<p>遺骸は甲斐へうつされて葬られました。</p>
<p><!--Ads1--></p>
<h2>柳沢吉保は何した人？</h2>
<p><a href="https://rekishigaiden.com/tokugawatsunayoshi/">徳川綱吉</a>の懐刀として幕政に深く関与した吉保。</p>
<p>時代劇では悪役とされることが多い彼ですが、実際のところは非常にまじめな人物で、癇癪持ちと言われる綱吉と老中たちの間に入り、調整役ともなっていました。</p>
<h3>武田家の再興に尽力</h3>
<p>柳沢家は、もともとは甲斐武田家の家臣で、武田家の傍流でもあります。</p>
<p>この当時、武田本家は滅びたものの、<a href="https://rekishigaiden.com/takedashingen/">武田信玄</a>の次男の系統がまだ残っており、東北陸奥の磐城平藩の家臣となっていました。</p>
<p>吉保はその末裔である武田信興を綱吉に引き合わせ、また<span class="marker">武田家を高家旗本として再興するために働きかけています。</span></p>
<div class="concept-box6">
<p>高家旗本とは、家柄に格式があり、幕府の儀礼などを司る立場で、吉保の時代に暗殺された吉良上野介も高家旗本でした。</p>
</div>
<p>また、甲斐を拝領した後には、甲斐において武田信玄の百三十三回忌法要を行っています。</p>
<p>実は吉保は少年時代に父とともに武田信玄の百回忌に列席したこともあります。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" decoding="async" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
武田家への深いこだわりが伺われます。
</div>
</div></div>
<p>武田家は吉保が再興したおかげで保たれ、またその縁で、その後何度か吉保の子孫から養子を迎えています。</p>
<h3>三富新田開発に尽力</h3>
<p>吉保は36歳のときに、川越藩の藩主となりました。</p>
<p>そこで行ったのが<span class="marker">三富（さんとめ）新田の開発</span>です。</p>
<p>吉保は儒者の<a href="https://rekishigaiden.com/ogyusorai/">荻生徂徠</a>を抜擢。</p>
<p>政策ブレーンにします。</p>
<p>その献策により、当時は川越藩の領地であった現在の入間郡、所沢市の一部の台地を開拓し、農地としました。</p>
<p>もともとこの地区は水源に乏しく、土地が痩せて農業に向かなかったといいます。</p>
<p>そこで吉保は、入植した一軒一軒の農家に竹、カシ、ケヤキなどを植えさせました。</p>
<p>これは、植物に根を張らせることで保水力を上げるとともに、農具や建材などを確保するためだったといいます。</p>
<p>それと同時にクヌギやコナラなどの雑木林も育成。</p>
<p>その落ち葉は肥料となり、枝は薪や炭として利用されました。</p>
<p>いわば、現在再評価される「里山の知恵」を構築したといえます。</p>
<p><!--Ads2--></p>
<h2>柳沢吉保のエピソード・逸話</h2>
<p>柳沢吉保の「悪名」が高まったのは、やはり赤穂浪士に切腹を命じたのが原因だと思われます。</p>
<p>しかし、綱吉政権は武力ではなく法律により世を治める法治主義を推進する立場。</p>
<p>幕府に無断で徒党を組み、家屋に押し入って殺人を犯した赤穂浪士は法的にはただの犯罪者です。</p>
<p>現代の法治の観点から見ても吉保の判断は誤っているとは言えず、武士として切腹をさせたところに吉保の温情も見て取れます。</p>
<h3>甲斐の領民には慕われた</h3>
<p>吉保は最終的には先祖が出た甲斐を拝領します。</p>
<p>吉保自身は幕府重鎮であったためあまり甲斐には行かなかったようです。</p>
<p>しかし、国家老の薮田重守を通じて様々な政策を実施しています。</p>
<p>例えば、居城として与えられた甲府城の整備。</p>
<p>甲府城は、<a href="https://rekishigaiden.com/takedashingen/">武田信玄</a>が住んだ躑躅ヶ崎館の跡地に建てられた城です。</p>
<p>同時に城下町も整備されて発展しました。</p>
<p>その様子は「棟に棟、門に門を並べ、作り並べし有様は、是ぞ甲府の花盛り（家や門が重なり並んで建つ様子の甲府は花盛りのようだ）」と評されるほどでした。</p>
<div class="m50"></div>
<p>また、農地や灌漑用水路の整備も行っています。</p>
<p>当時の年貢は検地を行い、所有地の広さに賦課されるものでした。</p>
<p>吉保も検地を行っていますが、それまでの検地の結果より広い土地が発見されたとき、その分への課税を免じています。</p>
<p>これは生産高に対する年貢の割合が減るということなので、実質減税であり、農民からも感謝されています。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" decoding="async" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
後世の悪名とは正反対に、吉保は領民から慕われる名君でした。
</div>
</div></div>
<h3>六義園を造成した風流人</h3>
<p>現在、山手線駒込駅近くにある都立庭園<span class="marker">「六義園」</span>は、柳沢吉保の屋敷でした。</p>
<p>この場所はもともとは加賀前田家の江戸屋敷があったところで、吉保には37歳のときに与えられています。</p>
<p>吉保は和歌にも造詣が深く、この屋敷の庭を、和歌の6つのスタイル「六義」にのっとった姿に造営していきます。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" decoding="async" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
そのイメージには似合わぬというと失礼ですが、なかなかの風流人。</p>
<p>戦国時代の「数寄者」に通じるところがある人物でもあったようです。
</p></div>
</div></div>
<p>この庭園の造営には7年も費やされ、完成後には綱吉が58回も訪問しています。</p>
<p>江戸城から六義園までルート検索をすると、徒歩でも1時間程度。</p>
<p>駕籠で移動するにしても将軍が気軽にちょっとそこまでというわけにもいきません。</p>
<p>それを58回ですからどれだけ吉保の庭が気に入っていたのかがわかります。</p>
<h2>5行でわかる柳沢吉保のまとめ</h2>
<p>時代劇の悪役にされがちな幕臣・柳沢吉保のまとめです。</p>
<div class="kaisetsu-box3">
<div class="kaisetsu-box3-title">まとめ</div>
<ul>
<li>甲斐武田氏に連なる柳沢氏</li>
<li>小姓としてつかえていた徳川綱吉が将軍になったことで幕臣に</li>
<li>一介の小姓から、最終的には15万石の大大名に</li>
<li>三富新田開発、甲斐の城下発展などに尽力</li>
<li>六義園を造営</li>
</ul>
</div>
<p>赤穂浪士への果断な処分により悪いイメージがついてしまっている柳沢吉保。</p>
<p>しかし、こうして見るとかなり優秀な官僚であり為政者であったことがわかります。</p>
]]></content:encoded>
					
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		<title>大岡忠相はなにした人？徳川吉宗を支えた町奉行のエピソード</title>
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		<dc:creator><![CDATA[まさむね]]></dc:creator>
		<pubDate>Sun, 25 Aug 2019 07:46:57 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[江戸時代]]></category>
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					<description><![CDATA[大岡忠相（おおおか ただすけ）と聞いて「？」が浮かぶ人も、大岡越前守（おおおかえちぜんのかみ）と言えばピンとくるのではないでしょうか？ 大岡忠相は、江戸時代の名裁判官として知られています。 しかし、史実の彼の功績は、フィ]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>大岡忠相（おおおか ただすけ）と聞いて「？」が浮かぶ人も、大岡越前守（おおおかえちぜんのかみ）と言えばピンとくるのではないでしょうか？</p>
<p>大岡忠相は、江戸時代の名裁判官として知られています。</p>
<p>しかし、史実の彼の功績は、フィクションよりはるかに重要で偉大なものでした。</p>
<h2>大岡忠相のプロフィール</h2>
<p>大岡忠相は1677年生まれ。</p>
<p>大阪夏の陣が1615年ですから、徳川の世も安定し、人々の頭から戦乱の記憶が薄れていたころです。</p>
<p>父親は幕府旗本の大岡忠高。</p>
<div class="concept-box6">
<p>旗本というのは、将軍にお目通りは許されているけれど、1万石以下の禄高の武士のことです。</p>
<p>1万石以上で領地を与えられた武士は大名といいます。</p>
</div>
<p>忠相3歳のときに、第4代将軍<a href="https://rekishigaiden.com/tokugawaietsuna/">徳川家綱</a>が死去し、<a href="https://rekishigaiden.com/tokugawatsunayoshi/">徳川綱吉</a>が将軍位につきました。</p>
<p>4男だった忠相は、9歳のときに親戚の大岡忠真の養子となります。</p>
<p>大岡忠真は唯一の跡継ぎだった長男を亡くしていました。</p>
<p>23歳のときに、養父・忠真が亡くなったため、当主となります。</p>
<p>25歳のとき、将軍綱吉直属の親衛隊である書院番になります。</p>
<p>1703年、忠相26歳のとき、死傷者およそ6700人を出した元禄関東地震が発生。</p>
<p>忠相は復興活動に従事します。</p>
<div class="m50"></div>
<p>31歳で、旗本の監視役である目付に就任。</p>
<p>その翌年の1709年に、徳川綱吉が死去し、徳川家宣が将軍位につきました。</p>
<p>35歳で<span class="marker">山田奉行</span>として伊勢に赴任します。</p>
<div class="concept-box6">
<p>山田奉行は、伊勢神宮を統治し、祭礼や遷宮などを統括するという重要な役職です。</p>
</div>
<p>1712年、徳川家宣がわずか3年の治世で病没。</p>
<p>その子でまだ4歳の家継が7代将軍となりました。</p>
<p>山田奉行を39歳まで4年間勤めた忠相は江戸に呼び戻され、今度は<span class="marker">普請奉行</span>とされます。</p>
<div class="concept-box6">
<p>「普請奉行」とは、簡単に言えば土木建築関係を統括する役人です。</p>
</div>
<p>その年、1716年、幼い将軍が7歳という若さで病没。</p>
<p>紀州藩藩主の<a href="https://rekishigaiden.com/yoshimune/">徳川吉宗</a>が8代将軍となりました。</p>
<a href="https://rekishigaiden.com/yoshimune/" class="blog-card"><div class="blog-card-hl-box"><i class="jic jin-ifont-post"></i><span class="blog-card-hl"></span></div><div class="blog-card-box"><div class="blog-card-thumbnail"><img decoding="async" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/yoshimune-320x180.jpg" class="blog-card-thumb-image wp-post-image" alt="徳川吉宗" width ="162" height ="91" /></div><div class="blog-card-content"><span class="blog-card-title">徳川吉宗ってどんな人？わかりやすく簡単にまとめました</span><span class="blog-card-excerpt">徳川吉宗という名前はよく聞くし、暴れん坊将軍の人だということは知っているけど、「具体的に何をした人かは知らない……」という人は多いのでは...</span></div></div></a>
<div class="m50"></div>
<p>そして、忠相40歳のとき、<span class="marker">南町奉行に就任</span>し、同時に越前守を名乗るようになりました。</p>
<p>徳川吉宗は将軍就任と同時に<span class="marker">享保の改革</span>に着手。</p>
<p>忠相は、町奉行として改革の推進を行います。</p>
<p>その期間はおよそ20年に及びます。</p>
<p>60歳で寺社奉行となり、71歳で、禄高が1万石になるとともに、三河の西大平を領地として与えられ、大名となりました。</p>
<p>しかしそのころから体調を崩しがちになり、75歳で寺社奉行を辞任。</p>
<p>その年に亡くなりました。</p>
<p><!--Ads1--></p>
<h2>大岡忠相は何した人？</h2>
<p>南町奉行大岡越前守、北町奉行遠山金太郎、ドラマの町奉行はいわば裁判官の役割で、法に則るというよりは、悪人には厳しく、事情がある者には人情をもって裁くという、いわば人民裁判的な民衆の快感原則に寄り添った人物像です。</p>
<p>しかし、実際の忠相の活躍はそこに留まりません。</p>
<h3>町奉行として享保の改革を牽引</h3>
<p>江戸町奉行は司法だけではなく、江戸の町の行政も執り行います。</p>
<p>いわば、裁判官と都知事を兼任するような重職で、旗本としては最高位の役職となります。</p>
<p>忠相の町奉行としての功績は、どちらかといえば行政官としてのものです。</p>
<p>まず忠相は、<span class="marker">町火消を再編成して「いろは四七組」を組織</span>。</p>
<p>区分けを細かく、フレキシブルな消化作業ができるようにしました。</p>
<div class="m50"></div>
<p>それと同時に、<span class="marker">屋根瓦の推奨など家屋の防火対策</span>もすすめています。</p>
<p>現在東京ドームの近くに小石川植物園として残る場所は薬草園で、そこには小石川養生所が設置されていました。</p>
<p>小石川養生所は無料の病院です。</p>
<p>これを設置したのも忠相でした。</p>
<p>小石川薬園では、青木昆陽により救荒作物としてサツマイモ栽培が行われていました。</p>
<p>この青木昆陽を抜擢したのも忠相で、サツマイモ栽培に関する費用を助成しています。</p>
<p>売春行為は吉原だけに限定し、それ以外の場所での売春は禁じ、あるいは賭博の摘発を行うなど、<span class="marker">江戸の治安維持も積極的に行いました。</span></p>
<h3>武蔵野新田開発</h3>
<p>忠相が南町奉行になってから5年後の1722年。</p>
<p>幕府は忠相及び北町奉行の中山時春を、江戸のみならず関東周辺の農政を司る関東地方御用掛に任命しました。</p>
<p>この役職の使命は、<span class="marker">新田開発と灌漑設備の造成</span>です。</p>
<p>なぜ町奉行にこの役割が任されたのかというと、新田を開発することで幕府の税収（年貢）を増やすためです。</p>
<p>そこで忠相は、治水、灌漑などの技術者を集め、武蔵野台地、現在で言えば東京西部から埼玉西南部あたりでの新田開発に着手しました。</p>
<p>町奉行として多忙な忠相は、2人の代官に現場を任せ、自分は新田開発の総司令官の役割を果たして、それまで土地が痩せて農業には向かなかった土地を開発していきました。</p>
<p>忠相がこの新田開発にかかわったのは20年以上です。</p>
<p>60も半ばを過ぎたころに辞任し、事業は関東代官の伊奈氏に引き継がれ、最終的には82もの農村ができました。</p>
<p>埼玉県の入間市、川越市、朝霞市、東京都の立川市、青梅市などそのとき開発された地域では現在でも農業が盛んです。</p>
<p><!--Ads2--></p>
<h2>大岡忠相のエピソード・逸話</h2>
<p>大岡裁きで知られる大岡越前守。</p>
<p>実は彼は、現代にも続く重要な決まりごとを定めました。</p>
<h3>本の奥付を義務化</h3>
<p>なんでもいいので書籍を手にとって、その後ろのほうを見てください。</p>
<p>本によって内容は変わりますが、書名、著者、発行者、発行所、印刷所、出版年月日などが記載された部分があります。</p>
<p>この部分を<span class="marker">「奥付」</span>と言います。</p>
<p>忠相の時代、元禄の世を経て町人文化が発展し、庶民も絵物語や草紙などの本に親しむようになりました。</p>
<p>しかし、その反面海賊版も横行するようになりました。</p>
<p>忠相は、海賊版対策として『新作書籍出板之儀に付触書』を発布。</p>
<p><span class="marker">出版物には作者と版元を記した「奥書」をつけることを義務付けました。</span></p>
<p>これは明治以降にも引き継がれ、出版法で奥付をつけることが義務とされました。</p>
<p>現在では、一般書籍は義務ではないものの慣習として奥付がつけられ、また教科書については今でも奥付が義務となっています。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" decoding="async" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
日本の書籍に極端に海賊版が少ないのも、忠相がこれを定めたからであり、文化的な功労者としてもっと注目されてもいいのではないかと思います。
</div>
</div></div>
<h3>大岡政談はだいたいパクリ</h3>
<p>昭和の時代劇ドラマ<span class="marker">『大岡越前』</span>は、加藤剛さん主演で、2クール放送2クール休止で放送されていた『水戸黄門』の休止期間に放送されて人気を博しました。</p>
<p>大岡忠相が、時には悪人を厳しく島流しにし、時には人情をもって優しく情状酌量をするという裁判ドラマです。</p>
<p>このドラマの初期に使われた「三方一両損」などのエピソードは、忠相の死後に創作された講談<span class="marker">『大岡政談』</span>が元になっています。</p>
<p>しかしこの『大岡政談』、ほとんどは忠相本人の実話はではなく、『棠陰比事』という中国の裁判録からのパクリや、他の奉行による裁判を忠相にすげ替えただけというもの。</p>
<p>中国のほうがパクリだと言い出しかねない人のために一応付け加えると、『棠陰比事』が成立したのは南宋代・日本だと鎌倉時代ごろです。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" decoding="async" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
海賊版撲滅に努めた忠相が、後の世に他からのパクリでエピソードを作られてしまったのは、本人にとっても不本意ではないかと思われます。
</div>
</div></div>
<h2>4行でわかる大岡忠相のまとめ</h2>
<p>江戸時代の名奉行・大岡忠相のまとめです。</p>
<div class="kaisetsu-box3">
<div class="kaisetsu-box3-title">まとめ</div>
<ul>
<li>旗本として幕府の出世街道を歩む</li>
<li>徳川吉宗のもとで享保の改革を推進</li>
<li>武蔵野新田を開発し、首都圏の農業生産力を高める</li>
<li>奥付を義務化し、海賊版書籍を撲滅</li>
</ul>
</div>
<p>現実の大岡忠相は、吉宗のもとで八面六臂の活躍をして、江戸や周辺地域の発展をもたらしました。</p>
<p>その功績は、ドラマでの作られた姿よりもはるかに偉大です。</p>
<p>江戸時代の偉人として、もっと本来の姿が知られるべきではないかと思います。</p>
]]></content:encoded>
					
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			</item>
		<item>
		<title>明石元二郎はどんな人？スパイとして日露戦争を勝利に導いた男の生涯に迫る</title>
		<link>https://rekishigaiden.com/akashimotojiro/</link>
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		<dc:creator><![CDATA[まさむね]]></dc:creator>
		<pubDate>Tue, 20 Aug 2019 07:20:13 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[江戸時代]]></category>
		<category><![CDATA[明治時代]]></category>
		<category><![CDATA[大正時代]]></category>
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					<description><![CDATA[日本は諜報活動、スパイ工作が苦手だと言われます。 しかし、明治時代には、日露戦争で諜報活動に従事し、日本の勝利に貢献した情報将校がいました。 明石元二郎は、近代日本のスパイ王とも呼べる人物です。 明石元二郎のプロフィール]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>日本は諜報活動、スパイ工作が苦手だと言われます。</p>
<p>しかし、明治時代には、日露戦争で諜報活動に従事し、日本の勝利に貢献した情報将校がいました。</p>
<p>明石元二郎は、近代日本のスパイ王とも呼べる人物です。</p>
<h2>明石元二郎のプロフィール</h2>
<p>明石元二郎（あかし もとじろう）は1864年生まれ。</p>
<p>日本はまだギリギリ江戸時代で、明石が生まれた4年後の1868年に大政奉還が行われ、明治時代が始まります。</p>
<p>陸軍士官学校から陸軍大学校に入り、25歳の時に卒業して<span class="marker">ドイツに留学</span>、その後フランス領インドシナ、つまり今のベトナムあたりに赴任し、フィリピンのマニラにアメリカとスペインの戦争における観戦武官として招かれています。</p>
<p>37歳でフランス公使館付きの陸軍武官、翌年にロシア帝国公使館付きの陸軍武官となっています。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" decoding="async" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
公使館というのは大使館のようなもので、明石はフランス、ロシアを転任する中で諜報活動を行っていたようです。
</div>
</div></div>
<p>1904年に日露戦争が勃発。</p>
<p>在ロシア公使館はスウェーデンに移され、明石もスウェーデンを拠点にします。</p>
<p>日本海や日本海沿岸が主戦場となった日露戦争において、<span class="marker">明石は欧州側からの後方撹乱を行い、日露戦争での日本の勝利を支えました。</span></p>
<p>54歳のときに陸軍大将となり、同時に<span class="marker">第7代台湾総督となって台湾に赴任。</span></p>
<p>その翌年、日本に一時帰国する途中の船上で病気となり、福岡の病院に運ばれてそのまま亡くなりました。</p>
<p><!--Ads1--></p>
<h2>明石元二郎は何をした人？</h2>
<p>明石元二郎は日本の歴史の中では稀有な情報将校。</p>
<p>007もかくやというスパイ王でした。</p>
<h3>スパイとして日露戦争を勝利に導く</h3>
<p>明石元二郎は語学が堪能で、ドイツ語、フランス語、ロシア語、英語など複数の言語に通じていました。</p>
<p>まだ日露戦争が始まる前、欧州でパーティーに招かれたとき、ドイツの軍人にフランス語でドイツ語ができるか聞かれた明石は、とぼけてフランス語しかできませんと答えました。</p>
<p>安心したドイツ軍人は、ロシアの軍人とドイツ語で軍事機密について話し始め、明石はまんまと情報を得ることに成功しました。</p>
<div class="m50"></div>
<p><span class="marker">日露戦争時には、陸軍大将・児玉源太郎の命をうけて後方撹乱を行います。</span></p>
<p>ロシア帝国は東欧、北欧、中央アジアなどの国々を支配下に置いており、その各国に独立派、反ロシア派が存在しました。</p>
<p>明石はそうした人々と接近。</p>
<p>抵抗運動を支援しています。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" decoding="async" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
具体的には、武器の横流し、資金提供などだったようです。
</div>
</div></div>
<p>ロシア支配下の各地域では、明石の煽動によってデモやストライキ、武装蜂起が起こり、ロシアは軍を極東に集中できなくなりました。</p>
<p>明石の工作はロシア革命に繋がり、日露戦争における日本の勝利に貢献したどころか、ロシア帝国を崩壊にまで導きました。</p>
<p>ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世は、明石のスパイ活動を日本軍20万人に匹敵すると賞賛しています。</p>
<p>しかし、当の日本本国ではスパイ活動を軽視する風潮があり、これ以降は諜報活動が重視されることはなく、後に敗戦する原因の一端ともなっています。</p>
<h3>台湾の開発と台湾人の地位向上に活躍</h3>
<p>日清戦争での勝利によって、清国から台湾を割譲された日本は、台湾を植民統治します。</p>
<p>第4代総督・児玉源太郎の時代に民政長官に抜擢された<a href="https://rekishigaiden.com/gotoshinpei/">後藤新平</a>は、台湾の衛生、教育環境などを改善し、インフラ開発に努めました。</p>
<p>明石も<span class="marker">第7代の台湾総督</span>になってから、台湾電力を設立。</p>
<p>台湾西部の苗栗から彰化まで走る鉄道の海岸線を設置しています。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" decoding="async" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
台湾電力は戦後台湾を占領した中華民国に引き継がれて現在も台湾の電力を支え、海岸線は台湾鉄道西部幹線の海線として現在も運用されています。
</div>
</div></div>
<p>それまで台湾人は日本人より低い地位にされ、学校も日本人と分けられていました。</p>
<p>それを改正して、台湾人でも帝国大学へ入れるようにしました。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" decoding="async" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
後に李登輝が京都帝国大学、現在の京都大学に入学したのも明石による施策があってこそです。
</div>
</div></div>
<p>当時、台湾南部の嘉南平原は、広大な土地を持ちながらも水利が悪く、旱魃が頻発していました。</p>
<p>その状況を見た水利技師の八田與一は、ダム建設と灌漑事業を総督府に進言。</p>
<p>明石はその計画にゴーサインを出し、またその建設予算の獲得にも尽力しています。</p>
<p>その結果、嘉南平原には肥沃な農地が生まれ、八田與一は現在に至るまで現地の人に感謝を捧げられています。</p>
<p><!--Ads2--></p>
<h2>明石元二郎のエピソード・逸話</h2>
<p>スパイという緊張感のある任務についていた明石元二郎。</p>
<p>でも、私生活ではこんな人に本当にスパイがつとまるのかという感じの人だったようです。</p>
<h3>ズボラな汚おじさん</h3>
<p>明石元二郎は、<span class="marker">私生活ではかなりダメな人だった</span>ようです。</p>
<p>陸軍大学時代、学校から下宿に帰ると制帽を脱ぎ捨てると、そこに猫が入って寝ていました。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" decoding="async" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
猫鍋ならぬ猫帽子です。
</div>
</div></div>
<p>翌朝、明石は猫の毛がついたままの制帽をかぶってまた登校していたそうです。</p>
<div class="m50"></div>
<p>ある日士官学校を歩いていると、厳格さで知られる寺内正毅校長がやってきました。</p>
<p>明石は一緒に歩いていた友人にくっついて、校長先生をやりすごしました。</p>
<p>なんでくっついたのか聞かれると、サーベルが錆びているのを見られないためとのことでした。</p>
<p>日本人は鎌倉時代のころから歯をみがく習慣があり、江戸時代には歯ブラシ屋が栄えたといいますが、明石はまったく歯を磨くことがなかったそうです。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" decoding="async" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
こんなズボラな人がよく敵国に情報をもらしたりせずに活躍できたものだと思います。
</div>
</div></div>
<h3>今も台湾に眠る</h3>
<p>台湾総督として台湾に赴任していた明石。</p>
<p>一時帰国の途中で病に倒れました。</p>
<p>そのとき、死体を台湾に埋葬せよ、自分は台民の鎮護となると遺言しました。</p>
<p>明石が亡くなったのは福岡でしたが、その<span class="marker">遺言に従い遺骨は台湾の墓地に埋葬され、その墓地に「明石神社」が創建されました。</span></p>
<div class="m50"></div>
<p>戦後、明石神社は中国からの難民に占領されます。</p>
<p>しかし、後に総統となる陳水扁市長の時代に不法占拠した家屋が撤去され、林森公園として整備され、明石やその他墓地に埋葬されていた遺骨は、新北市の墓地に改葬されています。</p>
<p>明石神社にあった鳥居は一時期228紀念公園のすみっこに移されていたものが、現在は元あった林森公園に戻されています。</p>
<h2>4行でわかる明石元二郎のまとめ</h2>
<p>日露戦争勝利の陰の立役者明石元二郎のまとめです。</p>
<div class="kaisetsu-box3">
<div class="kaisetsu-box3-title">まとめ</div>
<ul>
<li>軍人としてドイツに留学、複数の言葉に通じる</li>
<li>日露戦争で反ロシア勢力を支援し後方撹乱</li>
<li>第7代台湾総督として台湾の発展に尽力する</li>
<li>本人の希望で死後台湾に葬られる</li>
</ul>
</div>
<p>いわゆるダメンズだった明石元二郎。</p>
<p>でも人情に厚く、だれからも好かれる好人物だったそうです。</p>
<p>大雑把だけれど何事にも一生懸命な彼は、いわば豪傑と呼ばれる存在なのかもしれません。</p>
]]></content:encoded>
					
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		<title>伊能忠敬ってどんな人？日本地図を作った理由は趣味だった？</title>
		<link>https://rekishigaiden.com/inotadataka/</link>
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		<dc:creator><![CDATA[まさむね]]></dc:creator>
		<pubDate>Thu, 15 Aug 2019 04:24:00 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[江戸時代]]></category>
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					<description><![CDATA[すごく長い間、すごく長い距離を歩き続ける自信はありますか？ 江戸時代、15年もの間日本中を歩き続けて測量し、当時としては最高峰とも言える日本地図を作り上げた人がいました。 伊能忠敬（いのう ただたか）は、日本の地理学史上]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>すごく長い間、すごく長い距離を歩き続ける自信はありますか？</p>
<p>江戸時代、15年もの間日本中を歩き続けて測量し、当時としては最高峰とも言える日本地図を作り上げた人がいました。</p>
<p>伊能忠敬（いのう ただたか）は、日本の地理学史上最高の偉人といっても過言ではありません。</p>
<h2>伊能忠敬のプロフィール</h2>
<p>伊能忠敬の生年は1745年。</p>
<p>江戸時代の中頃にあたり、時の将軍は<a href="https://rekishigaiden.com/yoshimune/">徳川吉宗</a>でした。</p>
<p>この年の秋、吉宗は将軍職を息子の家重に譲っています。</p>
<p>生国は上総国、今の千葉県の太平洋側で、生家は九十九里浜の近くで酒蔵を営んでいました。</p>
<p>6歳のとき母が死去。</p>
<p>父親は養子だったので、家を出て実家に戻ることになります。</p>
<p>しかし忠敬はそのまま生家に残り、祖父母に育てられました。</p>
<p>10歳で父親に引き取られるも、父とはいっしょに暮らさずに、親戚の家などを転々としていたといいます。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" decoding="async" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
このとき、算術、医学などを学んだようです。
</div>
</div></div>
<h3>千葉の村の商家に婿入り、地元の名主となる</h3>
<p>忠敬が17歳のとき、親戚の紹介で、下総国佐原村、今の千葉県の香取市あたりで酒造を営む伊能家の婿養子となりました。</p>
<p>佐原村は幕府直轄地だったため、武士の領主はおらず、利根川の水運の利用により経済が発達していました。</p>
<p>伊能家はその中でも一二を争う商家だったといいます。</p>
<p>そのため、伊能家は佐原村の政治的な部分も担う役割にあり、忠敬も、ただ商売をするだけではなく、村内の揉め事や、幕府との調停などにも関わっています。</p>
<p>36歳のとき、忠敬は村の代表とも言える名主となりました。</p>
<h3>天明の大飢饉で難民救済に努める</h3>
<p>忠敬が38歳のとき、浅間山の噴火による日照不足などが原因となった<span class="marker">天明の大飢饉</span>が発生しました。</p>
<p>伊能家では米の売買もしていたため、備蓄があり、忠敬は米を放出して救済につとめています。</p>
<div class="m50"></div>
<p>40歳を過ぎたころから忠敬は暦学に興味を持つようになります。</p>
<p>暦は天文学と密接に関わるため、天体観測なども行っていました。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" decoding="async" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
このころには、息子に商売をまかせ、半分隠居状態だったようです。
</div>
</div></div>
<p>48歳のときには、儒学者で、17歳年下の友人である久保木清淵と関西を旅しています。</p>
<p>3ヶ月に渡った旅では、忠敬は行く先々の方位計測、天体観測などを行っています。</p>
<p>そして49歳で正式に隠居して、家督を息子へ譲りました。</p>
<h3>江戸で暦学を学び、日本地図を作る</h3>
<p>50歳になった忠敬は、暦学を学ぶため江戸へ居を移し、暦学者の高橋至時に弟子入りしています。</p>
<p>55歳のときに、師の提言によって蝦夷地、つまり北海道の測量を行い、江戸に戻ってから蝦夷の地図を作成しました。</p>
<p>その翌年、今度は江戸から東北までの本州太平洋沿岸の測量と地図作成、さらにその翌年には、東北の日本海側、その次に東海道沿いを沼津までと、北陸の計測を行い、東日本の地図を作り上げ、将軍・<a href="https://rekishigaiden.com/tokugawaienari/">徳川家斉</a>に献上して賞賛されました。</p>
<p>その後、忠敬は、西日本、四国、九州、そして伊豆諸島まで測量と地図作成を行っています。</p>
<p>しかし、そんな日々を送っていた忠敬は、70歳を過ぎると喘息の症状が出るようになり、そして74歳で死去しました。</p>
<p><!--Ads1--></p>
<h2>伊能忠敬の日本地図作成までの道のり</h2>
<p>伊能忠敬は、<span class="marker">日本史上初めて、測量データをもとにした日本地図を作った</span>人です。</p>
<p>それまで、大雑把な地図はあったものの、測量データを踏まえた地図など存在しませんでした。</p>
<h3>始めは歩幅で計測していた</h3>
<p>忠敬の最初の測量は、北海道太平洋沿岸で行われました。</p>
<p>当時は、ロシア船が度々北海道に現れ、通商を求めるなどの状況がありました。</p>
<p>そのため、幕府は正確な北海道の地図を必要としており、忠敬の師匠の高橋至時が、それに乗じて測量を願い出たのです。</p>
<p>しかし、幕府は民間人の忠敬を信用せず、測量器具に制限を設けました。</p>
<p>そこで忠敬が距離を測るために用いたのが<span class="marker">歩測</span>でした。</p>
<p>要するに歩いた歩数に歩幅をかけて距離を割り出すのです。</p>
<p>このとき測量を行ったのは忠敬を含め4人。</p>
<p>この4人は、一歩の距離が一定になるように訓練を行っていました。</p>
<p>その成果である北海道測量と地図が幕府に高く評価されたため、以後の測量は幕府の公式事業として行われるようになります。</p>
<h3>幕府に認められ、測量器具を使って15年間計測</h3>
<p>忠敬一行の行く先には、幕府からお触れが出るようになり、また測量器具も充実するようになりました。</p>
<div class="concept-box6">
<p>測定方法については専門的になるので、詳しくは省きますが、地上の距離と角度を測定し、目標物との方角で微調整して、天体観測で緯度と経度を求めるというものです。</p>
</div>
<p>忠敬は、測量に行く先で日食や月食などの観察、計測も行っていました。</p>
<p>忠敬が行った測量の旅は、最初の北海道から数えて10回。</p>
<p>15年もの月日をかけて行われました。</p>
<p>日本地図の全体図は、残念ながら忠敬の生前には完成せず、完成したのは忠敬の死後3年経ってからでした。</p>
<p>完成した地図は大日本沿海輿地全図と名付けられ、もちろん現代の測量技術によって作られた地図と比べると多少の誤差はあるものの、当時としては非常に精度が高いものでした。</p>
<p>忠敬が残した地図は、明治時代ごろまでは実用的な地図として用いられています。</p>
<p><!--Ads2--></p>
<h2>伊能忠敬のエピソード・逸話</h2>
<p>伊能忠敬は、家業を引退した後に幕府の公共事業として日本地図を作り上げた偉人です。</p>
<p>でも、彼はどうして測量の旅に出たかったのでしょうか？</p>
<p>それは実は、純然たる趣味のためでした。</p>
<h3>裏テーマ「子午線一度の距離」の算出</h3>
<p>家業を退いてからの忠敬は、暦法、つまりカレンダー作成のための学問を学ぶことが趣味でした。</p>
<p>そのために千葉から江戸に引っ越して、19歳も年下の高橋至時に弟子入りしています。</p>
<p>忠敬、至時共通のテーマは<span class="marker">「子午線一度の距離」</span>でした。</p>
<p>子午線とは北極と南極を結んだ南北に伸びる線のこと。</p>
<p>地球は球形ですから子午線は地球をぐるりと巡っています。</p>
<p>正確な暦を作るためには、地球の半径を知る必要があり、その計算のためには、子午線と子午線の緯度1度ごとの長さを知る必要がありました。</p>
<p>忠敬は、自宅から至時の家までの距離からその距離を計算していたものの、至時にもっと長い距離で測らなければ正しい数値は出せないと言われます。</p>
<p>そのために必要だったのが、江戸から蝦夷までの間の測定でした。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" decoding="async" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
要するに、忠敬が蝦夷を測量に行ったのは、本当は「子午線一度の距離」を割り出すため。</p>
<p>趣味のために幕府の事業を利用したとも言えます。
</p></div>
</div></div>
<p>2回めの測量の旅で、忠敬は「子午線一度の距離」を28.2里＝110.749091kmだと割り出しました。</p>
<p>3回目の測量でも同じ数値が出ています。</p>
<p>しかし、師匠の至時はその数値に疑問を持ったため、実際の苦労の末に割り出した数値を否定された忠敬は憤慨します。</p>
<p>ところが、至時が後に入手したフランスの『ラランデ暦書』には、忠敬の計測した数値とほぼ同じ数値が記されていたので、そこで忠敬が正しかったことがわかりました。</p>
<h3>師匠を敬愛し、師匠のそばに眠る</h3>
<p>忠敬は、50歳のとき19歳年下、31歳の高橋至時に弟子入りしました。</p>
<p>至時は幕府天文方で、寛政暦の作成を行っています。</p>
<p>19歳年下とはいえ専門家の至時を、忠敬は師匠として敬愛していました。</p>
<p>時には自分が割り出した子午線一度の距離を否定されたことで憤慨することはあっても、その程度で亀裂が入るような師弟関係ではなかったのです。</p>
<div class="m50"></div>
<p>しかし、至時は忠敬がまだ日本測量旅行の途上にあった60歳のとき、41歳という若さで病死してしまいました。</p>
<p>その14年後に自分が臨終を迎えた時、忠敬は故郷ではなく至時の近くで眠りたいと遺言しました。</p>
<p>その遺言に従い、忠敬は至時が眠る上野源空寺に、至時の墓の隣に埋葬されています。</p>
<h2>4行でわかる伊能忠敬のまとめ</h2>
<p>日本で初めての正確な地図を作り上げた伊能忠敬のまとめです。</p>
<div class="kaisetsu-box3">
<div class="kaisetsu-box3-title">まとめ</div>
<ul>
<li>千葉の村の商家に婿入り、地元の名主となる</li>
<li>天明の大飢饉で難民救済に努める</li>
<li>50歳で隠居し、江戸で趣味の暦学を学ぶ</li>
<li>55歳から趣味をかねて幕府の事業として日本全国を測量し、地図を作る</li>
</ul>
</div>
<p>伊能忠敬が生涯、というか55歳からの15年で歩いた距離は4万キロ、ほぼ地球1周だと言われています。</p>
<p>仮に地球を徒歩で一周できるとしても、やり遂げる自信は私にはありません。</p>
<p>幕府の事業を任されたという責任感もさることながら、やはり趣味も兼ねていたということが、これだけの大事業を成し遂げられた秘訣なのかもしれません。</p>
]]></content:encoded>
					
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			</item>
		<item>
		<title>本多忠勝ってどんな人？わかりやすく簡単にまとめてみました</title>
		<link>https://rekishigaiden.com/hondatadakatsu/</link>
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		<dc:creator><![CDATA[まさむね]]></dc:creator>
		<pubDate>Tue, 13 Aug 2019 10:44:52 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[戦国時代]]></category>
		<category><![CDATA[安土桃山時代]]></category>
		<category><![CDATA[江戸時代]]></category>
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					<description><![CDATA[徳川四天王のひとりである本多忠勝といえば、勇猛無比、名槍・蜻蛉切の持ち主、生涯57回の戦闘で傷を負わなかった男。 忠勝についてのイメージは、まさにザ・戦国武将といったものです。 そんな忠勝の人となりをクローズアップしてみ]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>徳川四天王のひとりである本多忠勝といえば、勇猛無比、名槍・蜻蛉切の持ち主、生涯57回の戦闘で傷を負わなかった男。</p>
<p>忠勝についてのイメージは、まさにザ・戦国武将といったものです。</p>
<p>そんな忠勝の人となりをクローズアップしてみたいと思います。</p>
<p>まずはその生涯から見ていきましょう。</p>
<p>戦国時代を駆け抜けた男、本多忠勝はどんな人生を送ったのでしょうか。</p>
<h2>本多忠勝のプロフィール</h2>
<div class="simple-box1">
<ul>
<li>生誕　1548年3月17日</li>
<li>死没　1610年12月3日</li>
<li>享年　63歳</li>
</ul>
</div>
<p>本多忠勝は1548年に本多平八郎忠高の長男として、現在の岡崎市西蔵前町で生まれました。</p>
<p>本多家は松平家の古参の臣ですが、父・忠高は忠勝がわずか2歳のときに戦死してしまいます。</p>
<p>忠勝は叔父・忠真のもとで成長しました。</p>
<p>初陣は13歳、現代ではちょっと考えられない年齢です。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" decoding="async" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
これが戦国時代のシビアなところです。</p>
<p>忠勝が初めて首をとったのが14歳といいますから、さらに驚きです。
</p></div>
</div></div>
<p>現代では中学生にすぎない子どもが、殺し合いをしなければならない、それが戦国の掟です。</p>
<p>しかし、忠勝は戦争においてその本領を発揮するタイプの人間でした。</p>
<p>彼の能力を存分に生かせる場所は戦場なのです。</p>
<p>忠勝は典型的な戦闘的人間でした。</p>
<div class="m50"></div>
<p><a href="https://rekishigaiden.com/imagawayoshimoto/">今川義元</a>が桶狭間で討たれ、<a href="https://rekishigaiden.com/tokugawaieyasu/">徳川家康</a>が<a href="https://rekishigaiden.com/odanobunaga/">織田信長</a>と同盟を結んで勢力拡大につとめると、忠勝の活躍の場はいよいよ広がります。</p>
<p><span class="marker">戦場で縦横無尽に暴れまわる武人</span>として、その名声を高めていきます。</p>
<p>「鹿角脇立兜」と「蜻蛉切」は彼のトレードマークとして知られていくのです。</p>
<ul>
<li>1570年の姉川の合戦</li>
<li>1572年の一言坂の戦い、三方ヶ原の戦い</li>
<li>1575年の長篠の戦い</li>
<li>1584年の小牧・長久手の戦い</li>
</ul>
<p>など、徳川家の重要な戦いには常に忠勝の姿がありました。</p>
<p>「家康にすぎたるものがふたつあり。唐の頭と本多平八」</p>
<p>武田家の小杉左近によるこの狂歌は、のちにさまざまなパロディを生むほど有名になったものです。</p>
<p><a href="https://rekishigaiden.com/toyotomihideyoshi/">豊臣秀吉</a>にも「東の本多忠勝、西の立花宗茂」と並び称されるほど、有名な存在となっていきます。</p>
<div class="m50"></div>
<p>関ケ原の合戦以後は、伊勢桑名（三重県桑名市）10万石を領する大名となり、<span class="marker">桑名市発展の礎を築いた名君</span>として記憶されています。</p>
<p>1610年に本多忠勝は桑名で死去しました。</p>
<p>享年63歳でした。</p>
<p><!--Ads1--></p>
<h2>本多忠勝は何をした人？</h2>
<p>本多忠勝がその勇猛ぶりをいかんなく発揮した有名な戦い2つをご紹介しましょう。</p>
<p>まずは一言坂の戦いからです。</p>
<h3>一言坂の戦い</h3>
<p>これは1572年の戦いです。</p>
<p>舞台は遠江（静岡県西部）二俣城、プレイヤーは<a href="https://rekishigaiden.com/takedashingen/">武田信玄</a>と<a href="https://rekishigaiden.com/tokugawaieyasu/">徳川家康</a>です。</p>
<p>二俣城は戦略上の要地であり、ここを抑えたものは遠江を勢力圏にできる重要地点です。</p>
<p>なんとしても二俣城を死守したい家康でしたが、数で勝る武田軍は、二俣城への軍勢の展開の速さでも徳川軍を圧倒していました。</p>
<p>勝負は始めからついていたと言っていいでしょう。</p>
<p>本多忠勝はこの戦いにおいて殿をつとめ、徳川本隊を天竜川を越えて浜松に退却させるため、武田軍と死闘を繰り広げます。</p>
<p>本多軍と武田軍が激突したのが一言坂というところで、<span class="marker">忠勝の獅子奮迅の働きによって家康は天竜川を越えて退却することに成功しました。</span></p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" decoding="async" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
このとき武田軍で忠勝と戦ったのが小杉左近であり、例の狂歌、「家康に過ぎたるものがふたつあり。唐の頭と本多平八」というのは、この時の戦いの感慨を歌にしたものだと思われます。
</div>
</div></div>
<h3>小牧・長久手の戦い</h3>
<p><a href="https://rekishigaiden.com/odanobunaga/">織田信長</a>が本能寺に倒れた後、後継者として急速に台頭する<a href="https://rekishigaiden.com/toyotomihideyoshi/">羽柴秀吉</a>と織田信雄・<a href="https://rekishigaiden.com/tokugawaieyasu/">徳川家康</a>は1584年についに刃を交えることとなりました。</p>
<p>いわゆる小牧・長久手の戦いですが、この戦争は半年間にわたる長期戦となり、関ケ原のような両軍の会戦で勝敗を決する類のものではありませんでした。</p>
<p><span class="marker">本多忠勝が一役買ったのは長久手の戦いにおいて</span>です。</p>
<p>両軍あわせて2万ほどの軍勢が激突し、秀吉側の<a href="https://rekishigaiden.com/morinagayoshi/">森長可</a>が戦死した戦いですが、実は忠勝はこの激戦には参加していません。</p>
<p>忠勝の出番は、秀吉の本陣約2万を相手に、500人ほどの手勢で悠々と挑発した一件です。</p>
<p>秀吉がその気になれば本多忠勝隊を血祭にあげることもできたでしょうが、秀吉は常識的な行動を好まない男です。</p>
<p>悠然と愛馬に水を飲ませる忠勝を見逃しました。</p>
<p>忠勝の大胆不敵な行動に、敵である秀吉も感服したのです。</p>
<p><!--Ads2--></p>
<h2>本多忠勝のエピソード・逸話</h2>
<h3>蜻蛉切</h3>
<p>忠勝といえば<span class="marker">蜻蛉切（とんぼきり）</span>、といってもいいでしょう。</p>
<p>ひらりと飛ぶ蜻蛉が刃先で真っ二つに切れたという逸話をもつこの名槍は、忠勝を語るときになくてはならないものです。</p>
<p>当時の槍は2丈（約6m)が標準の長さといいますから、接近戦用ではなく、突撃を防ぐためのものでしょう。</p>
<p>蜻蛉切は柄の長さ1丈3尺（約4m)といいますから、相当短いです。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" decoding="async" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
使いやすさを考慮した結果でしょうか。
</div>
</div></div>
<h3>桑名藩主としての実績</h3>
<p>忠勝は<span class="marker">藩主として有能な一面もあった</span>ようです。</p>
<p>積極的な城下町の区画整理をおこない、現在の桑名市発展の基礎を築いた名君とされています。</p>
<p>戦闘のプロフェッショナルである忠勝が優れた行政能力をもっていたのは意外ですが、よくよく考えれば当然なのです。</p>
<p>戦場で何よりも必要なのは合理的精神です。</p>
<p>生き残るためには、勇猛さだけでは足りません。</p>
<p>合理的精神が絶対に必要です。</p>
<p>常に状況に応じた最適解を見つけ出さなければなりません。</p>
<p>生涯57回の戦場で傷一つ負わなかったという忠勝は、行政の手腕でも合理性を発揮したといえます。</p>
<h2>3行でわかる本多忠勝のまとめ</h2>
<div class="kaisetsu-box3">
<div class="kaisetsu-box3-title">まとめ</div>
<ul>
<li>根っからの戦争好き。戦いこそが存在理由。</li>
<li>腕っぷしも度胸も一人前以上。</li>
<li>統治者として有能な一面もあった。</li>
</ul>
</div>
<p>本多忠勝を一言でいうとすれば、「迷いのない人」といえるのではないでしょうか。</p>
<p>彼からは葛藤というものが感じられません。</p>
<p>行動原理はあくまでシンプルで、かつ力強いものです。</p>
<p>「主君と枕を並べて討死を遂げ、忠節を守るを指して侍という」</p>
<p>忠勝の言葉として伝えられているものです。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" decoding="async" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
忠勝自身の言葉かどうかは不明ですが、彼にふさわしい言葉ではないでしょうか。
</div>
</div></div>
<p>本質的に忠勝には葛藤がないため、ドラマがありません。</p>
<p>ドラマがないため一本調子になりがちなのです。</p>
<p>しかし、この点は彼の欠点とばかりはいえません。</p>
<p>戦国時代とは、そんな感傷を許さない世界だったかもしれないからです。</p>
<p>関ケ原の戦いで忠勝軍が首を90個とった、と事も無げに書かれていますが、首をとるということを具体的に想像してみれば、生首を90もぶら下げた軍勢の行進というのは、不気味でおぞましいものです。</p>
<p>忠勝が生きたのはそんな時代だった、ということを少しだけ想像してみるのも、大切なことなのではないでしょうか。</p>
]]></content:encoded>
					
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			</item>
		<item>
		<title>支倉常長ってどんな人？ヨーロッパへ渡った侍の生涯に迫る</title>
		<link>https://rekishigaiden.com/hasekuratsunenaga/</link>
					<comments>https://rekishigaiden.com/hasekuratsunenaga/#comments</comments>
		
		<dc:creator><![CDATA[まさむね]]></dc:creator>
		<pubDate>Fri, 09 Aug 2019 07:41:25 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[安土桃山時代]]></category>
		<category><![CDATA[江戸時代]]></category>
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					<description><![CDATA[支倉常長は江戸時代初期にヨーロッパにわたった侍です。 主君・伊達政宗の命をおびて、遠くローマまで派遣された常長を今回はご紹介したいと思います。 その生涯を探っていくと、時代に翻弄された悲劇の人物としての姿とともに、あの時]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>支倉常長は江戸時代初期にヨーロッパにわたった侍です。</p>
<p>主君・<a href="https://rekishigaiden.com/datemasamune/">伊達政宗</a>の命をおびて、遠くローマまで派遣された常長を今回はご紹介したいと思います。</p>
<p>その生涯を探っていくと、時代に翻弄された悲劇の人物としての姿とともに、あの時代に二つの大洋を横断して日本に戻るという並外れた冒険を成し遂げた偉大な人物としての姿が浮かび上がってきます。</p>
<p>それでは、彼の生涯から説明していきましょう。</p>
<h2>支倉常長のプロフィール</h2>
<div class="simple-box1">
<ul>
<li>生誕　1571年</li>
<li>死没　1622年7月1日</li>
<li>享年　52歳</li>
</ul>
</div>
<p>支倉常長（はせくら つねなが）は、<span class="marker">慶長遣欧使節としてヨーロッパに渡った人物</span>として知られています。</p>
<p>1571年、現在の米沢市に、山口常成（やまぐちつねしげ）の次男として生まれました。</p>
<p>山口常成は伊達輝宗・政宗に仕えた武士で、その祖先をたどれば<a href="https://rekishigaiden.com/kanmutenno/">桓武天皇</a>のひ孫・高望王にさかのぼるといいますから、かなりの名家の出身だったと推測されます。</p>
<p>ただ、常成は1600年に<span class="marker">政宗に自害を命ぜられて亡くなっています。</span></p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" decoding="async" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
どんないきさつがあったのかは不明ですが、父の自刃は常長にとって大きな衝撃だったと同時に、伊達家家中においての立ち位置にも影響を及ぼしたのではないでしょうか。
</div>
</div></div>
<p>名誉挽回のためにも主君・政宗のためにより一層の忠節を果たす必要があったのではないかと推測されます。</p>
<div class="m50"></div>
<p><a href="https://rekishigaiden.com/datemasamune/">伊達政宗</a>が城下町・仙台にキリスト教の布教を許可したとき、当地の仏教寺院とトラブルになったことがあります。</p>
<p>1611年のことです。</p>
<p>政宗はトラブルになった寺院の仏像破壊や、僧侶たちの殺害を支倉常長に命じており、常長はその仕事を忠実に遂行しました。</p>
<p>幕府がキリスト教の禁教令を出したのは1612年3月21日（直轄領のみ）、翌年1613年12月19日には全国に波及させていきます。</p>
<p>常長が慶長遣欧使節として石巻を出帆したのが、1613年9月15日です。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" decoding="async" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
仙台におけるキリスト教布教も常長の出帆も、幕府の対キリスト教政策が大転換する前夜にあたるわけです。
</div>
</div></div>
<p>サン・ファン・バウティスタ号で太平洋を横断し、メキシコを越え、ヨーロッパに上陸した常長らは、スペインでは国王フェリペ3世と謁見し、ローマでは教皇パウロ5世にも謁見しました。</p>
<p>その道中、常長は洗礼を受け、クリスチャンとなっています。</p>
<p>この<span class="marker">遣欧使節派遣の目的は、さまざまな推測がなされていますが、表向きは通商を求めたもの</span>です。</p>
<p>しかし、日本におけるキリスト教弾圧の情報は遠くローマまで届いていました。</p>
<p>そのこともあってか、この使節派遣はさしたる成果も生まず、常長らは帰国せざるを得ませんでした。</p>
<p>常長は1620年に仙台に帰国しますが、日本におけるキリスト教をめぐる環境は激変していました。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" decoding="async" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
心のうちはわかりませんが、形式上はクリスチャンとなった常長です。</p>
<p>しかも、主命であるヨーロッパとの通商交渉もまとまらないなかで帰国しなければならなかった常長は、さぞ無念だったのではないでしょうか。
</p></div>
</div></div>
<p>常長は失意のうちに1622年に没したと伝えられています。</p>
<h2>支倉常長は何をした人？</h2>
<p>日本の戦国時代は、世界史においては大航海時代と重なり、その交流がかつてないほど拡大・深化した画期的な時代でもあります。</p>
<p>日本人も日本列島から中国、東南アジアへとその行動範囲を広げ、田中勝介のようなアメリカ大陸まで進出する商人もあらわれました。</p>
<p>「下剋上」という言葉が示すように、身分制度が崩壊し、実力がものをいう社会が出現した戦国日本は、まさに沸騰するエネルギーの場だったといえるでしょう。</p>
<p>そのエネルギーの爆発が日本人の海外進出となってあらわれたのです。</p>
<p>しかし、常長の場合は、その戦国が終結しつつあり、国内があらたな身分制度の確立に向かう過渡期にあたっていました。</p>
<p>沸騰したマグマが冷え固まり、あらたな土壌を形成しつつあったのです。</p>
<p>時代の変わり目に生きた常長の大きな仕事である慶長遣欧使節について、少し詳しく説明していきます。</p>
<h3>慶長遣欧使節の道のり</h3>
<p>使節団をのせたサン・ファン・バウティスタ号は1613年9月15に出帆しました。</p>
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出発のときは150人ほどいたそうですから、かなり大規模な使節団といえるでしょう。
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<p>スペイン国王やローマ法王に手渡すための書状は、日本語とラテン語の2種類作成され、ラテン文は<a href="https://rekishigaiden.com/datemasamune/">伊達政宗</a>の信頼厚い宣教師のルイス・ソテロによってしたためられました。</p>
<p>食料や水を十分に積載した船は、まず太平洋を横断するという大仕事にとりかかります。</p>
<p>暴風雨や乗員の病気、食料の問題など、考えられるトラブルは枚挙に暇がありません。</p>
<p>しかし幸いにも、3か月ほどで使節団はメキシコに無事たどり着くことができました。</p>
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これだけでも大変な業績といえるでしょう。
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<p>アカプルコから今度は陸路でメキシコを横断し、メキシコ湾にのぞむウルワから別の船で大西洋に進みます。</p>
<p>ハバナでまた別の船に乗り換えたあと、いよいよ大西洋横断です。</p>
<p>一行は60日ほどでスペインのサン・ルカルに到着します。</p>
<p>1614年10月5日のことです。</p>
<p><span class="marker">一年あまりをかけて、常長らは太平洋と大西洋の二つの海を渡った</span>のです。</p>
<p>その後、マドリードではスペイン国王フェリペ3世に謁見しました。</p>
<p>8か月ほど滞在したあと、一行はバルセロナから船でフランスを経てイタリア・サヴォナに上陸します。</p>
<p>そして、1615年10月18日についにローマへと到着しました。</p>
<p>ここまで来るのに2年あまりを費やしました。</p>
<p>アジアからヨーロッパまでの長い旅です。</p>
<p>現在とは比べ物にならない危険と隣り合わせの航海でした。</p>
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これだけでも、偉大な達成といっていいと思います。
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<h3>使節派遣の目的</h3>
<p>一方でキリスト教を禁じ、もう一方では交易を望むというアンビバレントな幕府の姿勢には、当時の世界情勢と深い関係があります。</p>
<p>1588年にスペインの無敵艦隊がイギリスに敗れ、ヨーロッパの勢力図が変わろうとしていたといえ、当時、世界でもっとも勢いのあったのはスペインです。</p>
<p>アメリカ大陸を勢力圏におさめ、フィリピンを植民地化したスペインは、虎視眈々と中国や日本をその支配下におさめようと企んでいました。</p>
<p>スペインの常とう手段は、まず宣教師を送り込み、現地の民衆をキリスト教に教化し、しかる後に軍隊を送り込むというもので、日本に来る宣教師が植民地化のための尖兵であることを、<a href="https://rekishigaiden.com/toyotomihideyoshi/">豊臣秀吉</a>や<a href="https://rekishigaiden.com/tokugawaieyasu/">徳川家康</a>、<a href="https://rekishigaiden.com/datemasamune/">伊達政宗</a>など為政者たちはよく見抜いていました。</p>
<p>それでも、西洋との交易は莫大な利益を生むため、キリスト教の布教も一定の範囲内で許容していたにすぎません。</p>
<p><span class="marker">慶長遣欧使節の目的も、西洋との貿易にある</span>と断言していいでしょう。</p>
<p>その際、注意すべきは、この使節派遣を企てたのが伊達政宗だったということ。</p>
<p>政宗が絡んでいるため、スペインと組んで幕府転覆の陰謀があったのではないか、などの憶測がされますが、この使節派遣は幕府も了承しており、というより積極的に援助しており、幕府と伊達家の共同作業というほうが適切かもしれません。</p>
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むしろ、国策としての使節派遣だったと考えていいでしょう。
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<h3>日本帰国後の支倉家</h3>
<p>常長が日本に帰国してからの詳しい記録は残っていません。</p>
<p>どこで亡くなったのかも確定しがたいのです。</p>
<p>さらに、常長帰国後、<a href="https://rekishigaiden.com/datemasamune/">伊達政宗</a>によるキリシタン迫害はいよいよ厳しくなります。</p>
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常長の不遇は、そのことと無関係ではないはずです。
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<p>常長死後、支倉家を継いだ長男の常頼は、家臣にキリシタンがいたという理由で処刑されています。</p>
<p>次男の常道もその最期がはっきりしません。</p>
<p>行方不明になったとも処刑されたとも伝えられます。</p>
<p>なお、幸いに常頼の子である常信のときに支倉家は再興することができました。</p>
<h2>支倉常長のエピソード・逸話</h2>
<h3>ローマ教皇パウロ5世に謁見する</h3>
<p>常長は1615年11月3日に<span class="marker">ローマ法王パウロ5世に謁見</span>しています。</p>
<p>目的はもちろん、主君・<a href="https://rekishigaiden.com/datemasamune/">伊達政宗</a>の書状を手渡すことですが、政宗の書状は書記官によりその場で読み上げられました。</p>
<p>書状には日本語とラテン語の2種類があり、読み上げられたのは、ラテン語のほうです。</p>
<p>その内容は、</p>
<ul>
<li>政宗がメキシコとの通商を欲していること</li>
<li>メキシコを領有しているスペインの許可を斡旋してほしいこと</li>
</ul>
<p>などが述べられていました。</p>
<p>これに対する法王の回答は、スペイン国王に依頼することを約束する、というものです。</p>
<p>この謁見が成功であったかどうかというのは判断が難しいところです。</p>
<p>なぜなら常長一行は、ローマに到着する前にスペインで国王フェリペ3世に謁見しており、その後ローマで法王にスペインとの斡旋を頼むというのは、スペインとの交渉がうまくいかなかったことを想像させるからです。</p>
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真相はわかりませんが、確かなのは、日本がメキシコとの通商を開くことはなかったということです。
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<h3>ローマ市公民権を授与される</h3>
<p><span class="marker">常長ら一行は、ローマにおいて大変な歓迎を受けました。</span></p>
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洗礼をうけてクリスチャンとなったこともその一因だったかもしれません。
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<p>ローマの元老院より公民権を授与されただけではなく、貴族にも列せられています。</p>
<p>遠く極東の日本からやってきた異邦人に対して、きわめて丁重なもてなしというべきでしょう。</p>
<p>現在とは違い、遠洋航海というのはきわめて危険な旅であったことを考えれば、ローマにおける歓待も納得できるというものです。</p>
<h2>3行でわかる支倉常長のまとめ</h2>
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<div class="kaisetsu-box3-title">まとめ</div>
<ul>
<li>慶長遣欧使節としてヨーロッパに渡った</li>
<li>ヨーロッパで洗礼を受けてクリスチャンになる</li>
<li>伊達政宗に自害を命ぜられて亡くなる</li>
</ul>
</div>
<p>戦国時代に遠くヨーロッパまで到達した支倉常長。</p>
<p>めずらしい異国からの来訪者に、ヨーロッパの人々も興味津々だったに違いありません。</p>
<p>まさに冒険とよぶにふさわしいこの使節派遣に使われたサン・ファン・バウティスタ号は現代に再建造され、震災も乗り越え、石巻市にその雄姿をたたえています。</p>
<p>宮城県を訪れる機会があれば、ぜひ石巻市にも足を延ばし、サン・ファン・バウティスタ号と支倉常長に思いをはせてみてはいかがでしょう。</p>
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