<?xml version="1.0" encoding="UTF-8"?><rss version="2.0"
	xmlns:content="http://purl.org/rss/1.0/modules/content/"
	xmlns:wfw="http://wellformedweb.org/CommentAPI/"
	xmlns:dc="http://purl.org/dc/elements/1.1/"
	xmlns:atom="http://www.w3.org/2005/Atom"
	xmlns:sy="http://purl.org/rss/1.0/modules/syndication/"
	xmlns:slash="http://purl.org/rss/1.0/modules/slash/"
	>

<channel>
	<title>室町時代の有名な人物一覧｜歴史上の人物外伝</title>
	<atom:link href="https://rekishigaiden.com/category/muromachi/feed/" rel="self" type="application/rss+xml" />
	<link>https://rekishigaiden.com</link>
	<description></description>
	<lastBuildDate>Fri, 06 Dec 2019 11:37:28 +0000</lastBuildDate>
	<language>ja</language>
	<sy:updatePeriod>
	hourly	</sy:updatePeriod>
	<sy:updateFrequency>
	1	</sy:updateFrequency>
	<generator>https://wordpress.org/?v=5.9.13</generator>
	<item>
		<title>千利休は何した人？実は身長がかなり高かった？</title>
		<link>https://rekishigaiden.com/sennorikyu/</link>
					<comments>https://rekishigaiden.com/sennorikyu/#respond</comments>
		
		<dc:creator><![CDATA[まさむね]]></dc:creator>
		<pubDate>Fri, 06 Dec 2019 11:36:39 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[戦国時代]]></category>
		<category><![CDATA[安土桃山時代]]></category>
		<guid isPermaLink="false">https://rekishigaiden.com/?p=979</guid>

					<description><![CDATA[千利休と言えば、お茶の名手として有名です。 ただ、彼に関する話はお茶だけには留まりません。 実は、あの織田信長や豊臣秀吉とも深く関わる人物なのです。 彼はどんなことを成し遂げたのでしょうか。 また、エピソードや逸話は？ ]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>千利休と言えば、お茶の名手として有名です。</p>
<p>ただ、彼に関する話はお茶だけには留まりません。</p>
<p>実は、あの織田信長や豊臣秀吉とも深く関わる人物なのです。</p>
<p>彼はどんなことを成し遂げたのでしょうか。</p>
<p>また、エピソードや逸話は？</p>
<p>簡単にまとめてみました！</p>
<h2>千利休のプロフィール</h2>
<p>千利休（せんのりきゅう）1522-1591。</p>
<p>戦国時代から安土桃山時代にかけての商人、茶人。</p>
<p>主にわび茶の完成者として知られ、黒の帽子と衣を羽織った姿絵で有名です。</p>
<h2>千利休は何をした人？</h2>
<h3>豊臣秀吉の側近</h3>
<p>1569年以降、<a href="https://rekishigaiden.com/odanobunaga/">織田信長</a>は境を直轄地としていきますが、その過程で千利休は茶堂として召し抱えられることとなります。</p>
<p>そして1582年の本能寺の変により信長が亡くなると、<span class="marker">豊臣秀吉に仕える</span>ようになりました。</p>
<p><a href="https://rekishigaiden.com/toyotomihideyoshi/">豊臣秀吉</a>は利休に茶室を作るように命じ、約半年をかけて待庵を完成させ、以降はそこで茶会を開いていきます。</p>
<p>その後は大阪城内にも茶室を作り、1587年には聚楽第内に屋敷を構え、禄を3千石も賜るなど、茶人として大きく評価されるようになりました。</p>
<p>また、日枝佳乃側近として政事にも大きく関わり、豊臣秀長は「公儀のことは私に、内々のとは利休に」と語っていたといいます。</p>
<div class="m50"></div>
<p>こうして順風満帆に思えた利休でしたが、1591年、突然悲劇が訪れます。</p>
<p><span class="marker">秀吉の怒りを買い、切腹を命じられてしまう</span>のです。</p>
<p>その原因には様々な説が唱えられていますが、未だ確定はされていません。</p>
<p>一つには、茶器を高額で売り私腹を肥やしたという疑いを持たれたから。</p>
<p>他には、秀吉と茶堂に対する考え方で対立したからや、朝鮮出兵を批判したからなどの理由が挙げられています。</p>
<p>中には、茶会で秀吉に茶をこぼしてしまったからという、本当なら理不尽に思える説まであります。</p>
<p>いずれにせよ、切腹を命じられたからには逃れることはできません。</p>
<p>弟子たちの懇願も空しく、利休は京都で最期を迎えました。</p>
<p>当時70歳でした。</p>
<h3>わび茶の完成</h3>
<p>わび茶とは茶の湯の一様式であり、書院における豪華な茶の湯に対して、簡素簡略の境地である「わび」の精神を重んじたものです。</p>
<p>村田珠光が初めて以降、弟子の宗珠、武野紹鴎などが発展させ、千利休が完成させたと言われています。</p>
<p>彼は<span class="marker">受け継がれてきたわび茶の概念をさらに独自に発展</span>させ、道具を自分でデザインしたり、竹で作った簡易なものを用いたりしました。</p>
<p>これらは他からすれば粗末な道具とみなされていましたが、あえてそれを使うことに「わび」の精神が宿るとしていたのです。</p>
<p>他にも茶を飲む空間にも革新を行い、元々は「部屋の一部」でしかなかった茶室を、独立した建物である「草庵」として新しく生み出しました。</p>
<p>この茶への新たな考え方は孫の千宗旦にも引き継がれ、「わび茶」のイメージは完成されました。</p>
<p>このように、利休はそれまでの茶に対する考え方を根本から変えていき、現代に至るまでに多大な影響を与えることになったのです。</p>
<h2>千利休のエピソード・逸話</h2>
<h3>身長がかなり高かった</h3>
<p>利休の身長は、180cmもあったと推定されています。</p>
<p>現代でもかなり高い方ですが、当時の平均身長からすれば並外れた体格の持ち主だったと言えるでしょう。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
それだけの大男が茶室で正座している様子は、それだけで緊張感がありそうですね(笑)
</div>
</div></div>
<h3>切腹を命じられても動じなかった</h3>
<p><a href="https://rekishigaiden.com/toyotomihideyoshi/">豊臣秀吉</a>が千利休の切腹を決断した後、利休のもとに使者が来ました。</p>
<p>それを伝えられた利休は、「茶室の鍵をなくしてしまいました」と、動じることもなく答えたと言います。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
既に覚悟できていたのか、日ごろの茶室で培った精神のおかげなのか、いずれにしても彼の肝の据わった人間性が伺えるエピソードですね。
</div>
</div></div>
<h3>朝顔で秀吉を感動させた</h3>
<p>ある時、利休に招かれた秀吉は庭の朝顔がすべて切り取られていることに気付きました。</p>
<p>不思議に感じながらも茶室に入ると、そこにあったのは一輪の朝顔。</p>
<p>普段なら何も感じない朝顔でも、たった一輪だけという状況だとより一層その美しさを際立たせてくれます。</p>
<p>それを見た秀吉は、利休の心意気に深く感動しました。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
一つを高めるために他を犠牲にする、という考え方は一見残酷なようにも思えますが、何かを追求するということにはそれだけの覚悟と決断が必要なのでしょう。</p>
<p>他の誰もやらないことをやることができる彼の精神が、秀吉を惹きつけたのだと思います。
</p></div>
</div></div>
<h2>3行でわかる千利休のまとめ</h2>
<div class="kaisetsu-box3">
<div class="kaisetsu-box3-title">まとめ</div>
<ul>
<li>織田信長・豊臣秀吉に仕え、側近や茶人として大成していくが、秀吉の怒りを買い切腹をさせられた</li>
<li>村田珠光が生み出した「わび茶」の精神を受け継ぎ、完成させた</li>
<li>切腹を伝えられても動じないような強い心を持っていた</li>
</ul>
</div>
<p>千利休の人生はすべて茶と共にあり、彼のおかげで茶に対する世間の関心は大きく向上しました。</p>
<p>秀吉の側近としても優秀で、大きな信頼も持たれていましたが、最期には怒らせてしまい自害するというのは、なんとも悲しい終わり方だと思います。</p>
<p>しかし、それもきっと利休自身が信念を曲げなかったゆえのことだったのでしょう。</p>
<p>茶で培われた精神は、後世にも受け継がれ、そして現代にも多くの影響を残しています。</p>
]]></content:encoded>
					
					<wfw:commentRss>https://rekishigaiden.com/sennorikyu/feed/</wfw:commentRss>
			<slash:comments>0</slash:comments>
		
		
			</item>
		<item>
		<title>松永久秀ってどんな人？信長を裏切った悪党って本当？</title>
		<link>https://rekishigaiden.com/matsunagahisahide/</link>
					<comments>https://rekishigaiden.com/matsunagahisahide/#respond</comments>
		
		<dc:creator><![CDATA[まさむね]]></dc:creator>
		<pubDate>Sun, 18 Aug 2019 00:46:04 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[戦国時代]]></category>
		<guid isPermaLink="false">https://rekishigaiden.com/?p=1138</guid>

					<description><![CDATA[松永久秀（まつなが ひさひで）についてどんなイメージをお持ちですか？ 悪党、卑劣、裏切り、神仏を恐れない男、こんなところでしょうか。 久秀は複雑な人物です。 戦国時代を象徴しているような、現代の我々には理解しがたい一面を]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>松永久秀（まつなが ひさひで）についてどんなイメージをお持ちですか？</p>
<p>悪党、卑劣、裏切り、神仏を恐れない男、こんなところでしょうか。</p>
<p>久秀は複雑な人物です。</p>
<p>戦国時代を象徴しているような、現代の我々には理解しがたい一面を持っています。</p>
<p>まずは、どんな人生を送ったのか、その生涯を一瞥してみましょう。</p>
<h2>松永久秀のプロフィール</h2>
<div class="simple-box1">
<ul>
<li>生誕　1510年（1508年説もあり）</li>
<li>死没　1577年10月10日</li>
<li>享年　68歳</li>
</ul>
</div>
<p>松永久秀は謎の多い人物です。</p>
<p>生年も従来は1510年とされてきましたが、最近は1508年説も有力です。</p>
<p>出身地もよくわかっていません。</p>
<p>阿波（徳島県）、摂津（大阪府）、山城（京都府）などさまざまです。</p>
<p><a href="https://rekishigaiden.com/saitodozan/">斎藤道三</a>と同郷という説まであります。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
典型的な成り上がり者と言っていいでしょう。
</div>
</div></div>
<h3>三好長慶の忠実な家臣</h3>
<p><span class="marker">三好長慶のもとで頭角をあらわし、やがては三好家の中で最重要人物となっていきます。</span></p>
<p>当初は公家や寺院との折衝役として活躍したところをみると、相当な教養人であったことがうかがえます。</p>
<p>茶道具のコレクターとしても知られており、<a href="https://rekishigaiden.com/odanobunaga/">織田信長</a>に献上した名器・九十九髪や、久秀と運命をともにした名器・平蜘蛛を所有していたことは有名です。</p>
<p>最初は実務官僚のような立場だった久秀ですが、徐々に戦場においてもその能力を発揮していき、1560年には大和（奈良県）一国を領有するまでになります。</p>
<p>形式上は三好家の家臣ですが、名実ともに一国一城の主です。</p>
<p>それでも、三好長慶が存命中は、久秀も忠実な家臣でした。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
長慶には、ここまで引き上げてくれた恩を感じていたのかもしれません。
</div>
</div></div>
<h3>三好長慶の死後、甥の義継と対立</h3>
<p>しかし、いくら有能とはいえ、久秀はどこの馬の骨ともわからない成り上がり者です。</p>
<p>三好家譜代の家臣たちとそりが合わなかったであろうことは、容易に想像がつきます。</p>
<p>長慶とその長男・義興の死後、家中の対立が表面化することになります。</p>
<p>長慶亡き後、三好家の当主となったのは、甥の三好義継です。</p>
<p>そして、義継を補佐する三好三人衆（三好長逸・三好宗渭・岩成友通）が実権を握ります。</p>
<p>最初のうちは、久秀と三好三人衆も共同で<a href="https://rekishigaiden.com/ashikagayoshiteru/">足利義輝</a>殺害に関与するなど、行動をともにする面も見られましたが、徐々に対立関係があらわになっていきます。</p>
<p>また、当主として担がれた義継も、実質的な支配者である三好三人衆との対立を深めていき、<span class="marker">義継・久秀vs三好三人衆</span>という構図になっていきます。</p>
<h3>信長と三好三人衆</h3>
<p>皮肉にも両者の内戦を終結させたのは、<a href="https://rekishigaiden.com/ashikagayoshiaki/">足利義昭</a>を奉じた<a href="https://rekishigaiden.com/odanobunaga/">織田信長</a>です。</p>
<p>情勢を読み誤らなかった久秀は素早く信長と誼を通じ、反発した三好三人衆は信長に蹴散らされてしまいます。</p>
<p>信長の登場によって政敵に対して優位に立てた久秀ですが、信長は久秀の意のままになるような存在ではありませんでした。</p>
<p>信長は久秀を優遇しましたが、久秀にとって信長の風下に甘んじるのは面白くなかったのかもしれません。</p>
<p>足利義昭の信長包囲網が構築されていく中で、ついに<a href="https://rekishigaiden.com/takedashingen/">武田信玄</a>が軍を動かすと、久秀は三好義継や敵であった三好三人衆とともに反旗を翻します。</p>
<p>しかし、肝心の信玄が中途で病死し（1573年）、信長包囲網は瓦解し、義継も信長に殺され、三好三人衆も完全に壊滅しました。</p>
<p><span class="marker">久秀は信長に降伏</span>し、赦され、名刀・不動国行を献上しています。</p>
<h3>久秀の最期</h3>
<p>しかし、久秀は静かな余生を送ることはできませんでした。</p>
<p>1577年、<a href="https://rekishigaiden.com/uesugikenshin/">上杉謙信</a>や毛利輝元ら反信長勢力の動きが活発になると、久秀は再び信長に背きます。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
なぜ、勝ち目のない反乱に及んだのか、真相は不明です。</p>
<p>どうしても信長とは相いれない部分があったのかもしれません。
</p></div>
</div></div>
<p>久秀討伐のために9月27日に織田信忠が出陣し、10月10日、松永久秀は息子の久通とともに、信貴山城にその生涯を閉じたのです。</p>
<p><!--Ads1--></p>
<h2>松永久秀は何をした人？</h2>
<h3>三好長慶のもとで頭角を現す</h3>
<p>三好長慶は細川晴元の家臣として台頭し、やがて主君の晴元を近江に追放して、畿内・四国などに領地を有し、一時は天下の権を握って絶大な権力をふるいました。</p>
<p>現在では長慶の治世は「三好政権」と呼ばれ、<a href="https://rekishigaiden.com/odanobunaga/">織田信長</a>の先駆として高い評価を得ています。</p>
<p>松永久秀は長慶の右筆、つまり書記としてキャリアをスタートしました。</p>
<p>基本的には実務官僚としての働きが多かったのでしょう。</p>
<p>やがて、久秀は朝廷や寺社勢力との折衝で名前が知られるようになっていきます。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
三好政権の外交担当といえばいいでしょうか。
</div>
</div></div>
<p>代表的な例として、久秀の家臣・楠正虎の復権をあげておきます。</p>
<p>これは、かつての南北朝時代の<a href="https://rekishigaiden.com/kusunokimasashige/">楠木正成</a>を祖とする正虎が、朝敵としての汚名を晴らすため、朝廷に赦免を奏上し、久秀が正親町天皇と交渉した件です。</p>
<p>北朝の後継である正親町天皇が南朝の忠臣・楠木正成を赦免するというのは、かなり思い切った措置です。</p>
<p>赦免の勅諚のみならず、正虎の河内守任官まで許されました。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
久秀の調停役としての優れた手腕がよくわかる事案といえましょう。
</div>
</div></div>
<p>また、長年、三好長慶と中央政界の勢力争いを繰り広げた13代将軍・<a href="https://rekishigaiden.com/ashikagayoshiteru/">足利義輝</a>との和睦がなったあと、長慶の長男・義興と久秀は義輝の御供衆に加えられています。</p>
<p>御供衆は文字通り将軍のそば近く仕える御供であり、名誉職です。</p>
<p>驚くべきは、久秀が嫡男の義興と同格の扱いを受けていることでしょう。</p>
<p>全くの無名から三好家の外交・事務を総覧する立場まで上り詰めたといえます。</p>
<p>久秀が、長慶存命中は下剋上的な振る舞いもなく忠実な部下であったのは、多くの人が認めるところです。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
やはり長慶には恩義を感じていたのでしょう。
</div>
</div></div>
<h3>13代将軍・足利義輝殺害に関与する</h3>
<p>この事件は1565年5月19日に二条御所にて発生しました。</p>
<p>久秀の息子・松永久通と三好三人衆および三好義継の軍勢およそ1万が義輝を襲い、殺害した弑逆事件です。</p>
<p>久秀は大和国にいたため、直接この事件に参加はしていません。</p>
<p>ですが、義輝殺害に関して、久秀が無関係だったとは考えられません。</p>
<p>長男の松永久通がこの事件の実行者として参加しているからです。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
当然、久秀の同意があったと考えていいでしょう。
</div>
</div></div>
<p>義輝が殺害されるに至った経緯を簡単に説明すると、将軍職をただの神輿にしておきたい三好・松永勢力と、将軍職の権威回復に熱心な義輝との対立が直接の原因です。</p>
<p>そもそも、三好家と<a href="https://rekishigaiden.com/ashikagayoshiteru/">足利義輝</a>は、三好長慶の時代から幾度となく干戈を交えてきた間柄です。</p>
<p>事実上の実力者の長慶と、名目上の支配者の義輝との長い戦いがあったわけです。</p>
<p>長慶は義輝の存在が疎ましかったでしょうが、さすがにその命までは奪いませんでした。</p>
<p>長慶も主君殺しの汚名は避けたかったと見えます。</p>
<p>この両者の均衡が破れたのは、長慶の死によってです。</p>
<p>義輝は、長年の宿願を達成しようという姿勢をあらわにしてきました。</p>
<p>将軍職をただの傀儡としたい久秀や三好三人衆にとって、もはや義輝は用済みでした。</p>
<p>しかし、義輝を葬った久秀と三好三人衆も、覇権をめぐって内乱へと突き進んでいくのです。</p>
<p><!--Ads2--></p>
<h2>松永久秀のエピソード・逸話</h2>
<h3>戦国の三大梟雄</h3>
<p>松永久秀は、その特異な生きざまからか、<span class="marker">戦国の三大梟雄の一人</span>に数えられます。</p>
<p>裏切り、謀略、傍若無人の振る舞いなど、悪党としてのイメージで見られがちです。</p>
<p>彼が油断ならない人物だったことは確かであり、行動の動機も不明な点が多々あります。</p>
<p>特に最後に<a href="https://rekishigaiden.com/odanobunaga/">織田信長</a>に背いた件などはその最たるものでしょう。</p>
<p>信長は比較的、久秀には寛大だったにもかかわらずです。</p>
<p><a href="https://rekishigaiden.com/takedashingen/">武田信玄</a>の西上の際に久秀は信長に背きましたが、その命は取りませんでした。</p>
<p>1577年に再び背いたときも、信長は松井友閑を使者として、説得を試みています。</p>
<p>この試みを完全に無視したことによって、人質として信長に差し出していた久秀の孫二人（13歳と12歳）は、六条河原で斬られてしまいます。</p>
<p>まったく勝算のない反乱を、なぜ久秀は実行したのか。</p>
<p>この点なども、松永久秀をエキセントリックな人物に思わせる一つの要因といえます。</p>
<h3>東大寺大仏殿を焼く</h3>
<p>この事件は1567年に起きました。</p>
<p>事の発端は、三好政権を牛耳る三好三人衆と松永久秀の勢力争いにあります。</p>
<p>長年にわたる不倶戴天の仇である両者の対立は、主君三好長慶の没後、一気に表面化します。</p>
<p>さらに、三好長慶の甥である三好義継が久秀と結び、大和の筒井順慶が三好三人衆に加担したことで、事態が大きくなっていきました。</p>
<p>三人衆・筒井連合軍と久秀・義継連合軍の激突となり、奈良東大寺も戦場として巻き込まれる形になりました。</p>
<p>この戦乱で、東大寺大仏の頭部が焼失し、さらに伽藍、念仏堂なども焼失しました。</p>
<p>この事件は当時から有名だったようで、<a href="https://rekishigaiden.com/odanobunaga/">織田信長</a>も松永久秀のことを大仏を焼いた男として<a href="https://rekishigaiden.com/tokugawaieyasu/">徳川家康</a>に紹介しています。</p>
<p>現在では、久秀が積極的に大仏を焼こうとした証拠はないとして、戦闘時の混乱による失火での焼失、という見解が有力のようです。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
もちろん、その真相はわかりませんが、当時も今も、松永久秀が大仏を焼いたという汚名を着せられているのは確かです。
</div>
</div></div>
<h2>3行でわかる松永久秀のまとめ</h2>
<div class="kaisetsu-box3">
<div class="kaisetsu-box3-title">まとめ</div>
<ul>
<li>己の才覚だけでのし上がる</li>
<li>取り立ててくれた三好長慶には従順だった</li>
<li>将軍殺害、東大寺大仏焼失など悪名を負わされる</li>
</ul>
</div>
<p>松永久秀は不思議な人物です。</p>
<p>その行動原理には不明確な点が多いのです。</p>
<p>それが、彼自身のキャラクターに由来するのか、それとも、複雑な畿内の政治状況に起因するのか、あるいはその両方なのか、今後の研究が俟たれます。</p>
<p>一つだけはっきりしているのは、彼の人生が「下剋上」の代表として見られているということです。</p>
<p>三好長慶の書記係から、長慶の死後、畿内の有力者にのし上がっていくさまは、たしかに「下剋上」と言えるかもしれません。</p>
<p>「下剋上」の徹底的な体現者は<a href="https://rekishigaiden.com/toyotomihideyoshi/">豊臣秀吉</a>でしょうが、秀吉は久秀と違ってダークなイメージで語られることはありません。</p>
<p>むしろ庶民に愛されているのが秀吉でしょう。</p>
<p>ここに松永久秀の謎をとく鍵がありそうです。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
「下剋上」の体現者という意味では秀吉と同じですが、その歩む道が違うのではないでしょうか。</p>
<p>秀吉は公道を堂々と行進したのに対し、久秀は裏道を通らざるを得なかった、そんな感じがします。</p>
<p>松永久秀は影のあるキャラクターとして、これからも戦国ファンの心をつかんでいくのではないでしょうか。
</p></div>
</div></div>
]]></content:encoded>
					
					<wfw:commentRss>https://rekishigaiden.com/matsunagahisahide/feed/</wfw:commentRss>
			<slash:comments>0</slash:comments>
		
		
			</item>
		<item>
		<title>【織田長益（織田有楽斎）】女遊びや茶の湯に生きた信長の弟の生涯</title>
		<link>https://rekishigaiden.com/odanagamasu/</link>
					<comments>https://rekishigaiden.com/odanagamasu/#respond</comments>
		
		<dc:creator><![CDATA[まさむね]]></dc:creator>
		<pubDate>Fri, 16 Aug 2019 12:13:13 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[戦国時代]]></category>
		<guid isPermaLink="false">https://rekishigaiden.com/?p=1183</guid>

					<description><![CDATA[世の中には兄弟は似ているのが当然という奇妙な考え方の人がいます。 でも、兄弟といえども違う人格なのだから、それぞれの個性があり、兄弟だからといって必ずしも似ていなければならないということはありえません。 とはいえ、戦国時]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>世の中には兄弟は似ているのが当然という奇妙な考え方の人がいます。</p>
<p>でも、兄弟といえども違う人格なのだから、それぞれの個性があり、兄弟だからといって必ずしも似ていなければならないということはありえません。</p>
<p>とはいえ、戦国時代の武将・織田長益（おだながます）は、強烈な兄とはあまりにもかけ離れた人物でした。</p>
<h2>織田長益のプロフィール</h2>
<p>織田長益は1547年生まれ。</p>
<p>戦国時代のただ中で、誰が覇権を握るのかすら判然としない群雄割拠の時代でした。</p>
<p>長益の13歳年上の兄が、<a href="https://rekishigaiden.com/odanobunaga/">織田信長</a>です。</p>
<p>つまり、<span class="marker">織田信長の弟</span>ということになりますね。</p>
<p>生後の長益は、織田家家老の平手政秀に預けられて、武芸よりも四書五経や歴史、礼儀作法、そして茶の湯を学ばされていたと伝えられます。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
あるいは信長のような傾奇者にはしたくないという思いがあったのかもしれません。</p>
<p>しかし、政秀は長益が6歳の時に自刃しているので、実際にはそれほど多くのものは学んではいないでしょう。
</p></div>
</div></div>
<p>それ以後のことはあまりわかっていません。</p>
<h3>本能寺の変</h3>
<p>長益が記録に現れるのは彼が34歳のときのこと。</p>
<p>1581年に正親町天皇の御前で行われた軍事パレード「お馬揃え」に参加しています。</p>
<p>その翌年、1582年に行われた、甲斐武田を殲滅する戦い、甲斐征伐では、信長の長男、織田信忠の麾下に入っています。</p>
<p>あるいは信忠の後見役だったのではないかとも言われています。</p>
<div class="m50"></div>
<p>同年、<span class="marker">本能寺の変</span>が勃発。</p>
<p>長益は、信忠とともに二条城におり、<a href="https://rekishigaiden.com/akechimitsuhide/">明智光秀</a>の軍が攻め寄せたとき信忠は自刃したのに対し、長益は脱出したため、人でなしと言われたとか。</p>
<p>しかしこれは後世に言われたことで、本当に二条城にいたのかすら定かではありません。</p>
<h3>秀吉の御伽衆になる</h3>
<p>本能寺の変後には、信長の次男・織田信雄の下についています。</p>
<p>1590年、信雄は天下人となった<a href="https://rekishigaiden.com/toyotomihideyoshi/">豊臣秀吉</a>から国替えを命じられるもののそれを拒否。</p>
<p>そのためお取り潰しになりました。</p>
<p>信雄がお取り潰しになってからは、剃髪して<span class="marker">「織田有楽斎（おだうらくさい）」</span>と名乗るようになり、秀吉の御伽衆（おとぎしゅう）となっています。</p>
<div class="concept-box6">
<p>御伽衆とは、農民上がりで教養がない秀吉に、礼儀作法や茶の湯などを指導する役割で、また主君のご機嫌取りでもありました。</p>
<p>教養がなければできない役目です。</p>
</div>
<p>関ヶ原の戦いでは<a href="https://rekishigaiden.com/tokugawaieyasu/">徳川家康</a>の東軍に入って、臣下の手柄を献上される形で武功をあげたことになっています。</p>
<p>その功によって長益は大和に3万2000石の所領を与えられました。</p>
<p>徳川の世になってからは茶の湯にいそしみ、75歳のときに隠居先の京都で亡くなっています。</p>
<p><!--Ads1--></p>
<h2>織田長益は何をした人？</h2>
<p>織田長益は、武将としてはさして目立った功績は残していません。</p>
<p>しかし、交渉人としての才覚があり、そちらで大きな功績を残しています。</p>
<p>また、長益流の茶の湯も創始しました。</p>
<h3>交渉人として活躍</h3>
<p>日本の戦において、<a href="https://rekishigaiden.com/odanobunaga/">織田信長</a>が行ったような殲滅戦は例外的であり、多くはある程度勝負が見えたところで敵の降伏、あるいは条件を提示した上での和睦が行われます。</p>
<p>しかし、さっきまで殺し合いをしていた敵同士、話を進めるには間に立つ人が必要です。</p>
<p>間に立つ人は、双方から信頼を得て仲を取り持たなければいけません。</p>
<p>逆に話をこじらせてしまったら無意味です。</p>
<p>長益はそうした<span class="marker">仲立ち役、交渉人として活躍しました。</span></p>
<div class="m50"></div>
<p>その才覚が最も発揮されたのが、織田信雄・<a href="https://rekishigaiden.com/tokugawaieyasu/">徳川家康</a>連合軍と<a href="https://rekishigaiden.com/toyotomihideyoshi/">羽柴秀吉</a>が戦った小牧長久手の戦いです。</p>
<p>まず、その戦いで秀吉についた滝川一益が、信雄側の蟹江城を落として占拠。</p>
<p>その蟹江城を信雄と家康の軍が包囲。</p>
<p>長益が一益を説得して開城させます。</p>
<p>小牧長久手の戦いはかなり広範囲にわたって局地戦が行われています。</p>
<p>ところが、信雄が家康には無断で秀吉との講和に応じてしまったので、家康ははしごを降ろされた状態になり、領土の三河に撤退。</p>
<p>そこで長益が、秀吉と家康の間に入って、家康に次男の於義丸、後の結城秀康を、秀吉の養子という形で人質に出させることで和議を結ばせました。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
こうした折衝は経験なしにできることではなく、おそらく信長存命中にもそのような役割をつとめていたものと推測されています。
</div>
</div></div>
<p>長益は大阪冬の陣において大阪城に入り、姪の淀殿を説得して徳川と和議をむすばせました。</p>
<p>しかし、徳川が強硬策に出たため大阪城内は主戦派の力が強くなり、夏の陣を前にしてもう誰も言うことを聞かなくなったと大阪城を離れています。</p>
<p>このことから、長益は家康の意を受けて大阪城に送り込まれていたとする説もあります。</p>
<h3>茶道有楽流を創始</h3>
<p>長益は後の世に「利休七哲」に数えられる<span class="marker">千利休の高弟</span>です。</p>
<p>いつ<a href="https://rekishigaiden.com/sennorikyu/">千利休</a>の門下に入ったのは定かではありませんが、茶の湯の秘伝とされる「台子点前」を、<a href="https://rekishigaiden.com/toyotomihideyoshi/">豊臣秀吉</a>の前で利休から相伝しています。</p>
<p>その長益が創始したのが、武家茶道の一派である<span class="marker">有楽流（うらくりゅう）</span>です。</p>
<p>利休の茶は、客も主人も茶室の中では対等で、相互にもてなし、もてなされるというある意味緊張感を必要とされるものでした。</p>
<p>それに対し、武家の茶は世俗での武家のしきたりを重んじて、茶室の中でも身分の上下を認めます。</p>
<p>そして、主人が客をおもてなしすることに重きを置いたのが有楽流だといいます。</p>
<p>有楽流は現在でも長益の子孫に受け継がれています。</p>
<p><!--Ads2--></p>
<h2>織田長益のエピソード・逸話</h2>
<p>戦の仲裁につとめ、茶道の流派を創始というとなかなか真面目で堅物に見えるかもしれません。</p>
<p>でも、意外とそんなことはなく、遊び人であったようです。</p>
<h3>古田織部を招いてからかう</h3>
<p>1607年というと関ヶ原の戦いと大坂の陣のちょうど真ん中ぐらいの時期。</p>
<p>このころ、長益は同じ<a href="https://rekishigaiden.com/sennorikyu/">千利休</a>の弟子である<a href="https://rekishigaiden.com/furutashigenori/">古田織部</a>を台子点前の席に招きました。</p>
<p>台子点前は茶の湯の秘伝。</p>
<p>貴人をもてなすときに用いられるものだったそうです。</p>
<p>織部は将軍・<a href="https://rekishigaiden.com/tokugawahidetada/">徳川秀忠</a>の茶の湯指南といういわば天下一の茶人ですから、台子点前でもてなすのは当然。</p>
<p>というのは建前の話。</p>
<p>長益は織部が利休から台子点前の指導を受けてないことを知っていました。</p>
<p>台子点前は、もてなす方にも、もてなされる方にも作法があります。</p>
<p>織部はその作法を知りません。</p>
<p>しかし、天下の茶人として織部は秘伝を知らないと言うわけにはいかず、知ったかぶりをします。</p>
<p>でも知ったかぶりなのであきらかに間違った作法を行う織部。</p>
<p>それを長益はにやにやしながら眺めていたそうです。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
ようするに作法を知らない織部をからかうために呼んだのですね。
</div>
</div></div>
<p>そして結局織部は風炉を覗き込んだときに炭の火でやけどをして、茶席をめちゃくちゃにするという大失態を犯します。</p>
<p>茶席はお開きとなり、その日二人は茶室に寝っ転がって楽しく過ごしたとか。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
長益と織部は、古くからのつきあいで気のおけない仲だったからこそ、こういうどぎついいたずらを仕掛けても笑って許されたのでしょう。
</div>
</div></div>
<h3>女たらしの子沢山</h3>
<p>長益の正室は、織田家家老の平手政秀の娘の清、後に出家して雲仙院と称する女性です。</p>
<p>長益には6男3女、計9人の子供がいますが、そのうち正室の清との子だとわかっているのは次男の頼長だけ、あとは側室でもないどこの誰ともわかっていない女性との子です。</p>
<p>そのせいかどうかはわかりませんが、次男の頼長はグレて傾奇者になりました。</p>
<p>いくつか妾宅を持つ女たらしで、わりと下半身では自由奔放だった様子。</p>
<p>その是非を現代の価値観で問うのは無意味なことです。</p>
<p>母親不詳の4男・長政は家康の小姓から大和国戒重藩の藩祖となり、現在有楽流を受け継いでいるのは長政から続く系統です。</p>
<h2>4行でわかる織田長益のまとめ</h2>
<p>織田信長の弟の遊び人・織田長益のまとめです。</p>
<div class="kaisetsu-box3">
<div class="kaisetsu-box3-title">まとめ</div>
<ul>
<li>お兄ちゃんが織田信長</li>
<li>武芸より教養を学ぶ</li>
<li>戦国末期には周旋役として活躍</li>
<li>千利休の弟子として有楽流を創設</li>
</ul>
</div>
<p>信長、秀吉、家康と、常に上に誰かが君臨する人生は窮屈だったかもしれません。</p>
<p>しかし、そんな中でも女遊びや茶の湯にうつつを抜かし、のらりくらりと生きた彼は意外と人生の達人だったのかもしれないですね。</p>
<p>東京の有楽町は、もと織田有楽斎の屋敷があったことから名付けられたとも伝えられていますが、有楽斎は江戸に住んだことがなく、隠居後は京都に住んでいたので俗説だとのことです。</p>
]]></content:encoded>
					
					<wfw:commentRss>https://rekishigaiden.com/odanagamasu/feed/</wfw:commentRss>
			<slash:comments>0</slash:comments>
		
		
			</item>
		<item>
		<title>本多忠勝ってどんな人？わかりやすく簡単にまとめてみました</title>
		<link>https://rekishigaiden.com/hondatadakatsu/</link>
					<comments>https://rekishigaiden.com/hondatadakatsu/#respond</comments>
		
		<dc:creator><![CDATA[まさむね]]></dc:creator>
		<pubDate>Tue, 13 Aug 2019 10:44:52 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[戦国時代]]></category>
		<category><![CDATA[安土桃山時代]]></category>
		<category><![CDATA[江戸時代]]></category>
		<guid isPermaLink="false">https://rekishigaiden.com/?p=1084</guid>

					<description><![CDATA[徳川四天王のひとりである本多忠勝といえば、勇猛無比、名槍・蜻蛉切の持ち主、生涯57回の戦闘で傷を負わなかった男。 忠勝についてのイメージは、まさにザ・戦国武将といったものです。 そんな忠勝の人となりをクローズアップしてみ]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>徳川四天王のひとりである本多忠勝といえば、勇猛無比、名槍・蜻蛉切の持ち主、生涯57回の戦闘で傷を負わなかった男。</p>
<p>忠勝についてのイメージは、まさにザ・戦国武将といったものです。</p>
<p>そんな忠勝の人となりをクローズアップしてみたいと思います。</p>
<p>まずはその生涯から見ていきましょう。</p>
<p>戦国時代を駆け抜けた男、本多忠勝はどんな人生を送ったのでしょうか。</p>
<h2>本多忠勝のプロフィール</h2>
<div class="simple-box1">
<ul>
<li>生誕　1548年3月17日</li>
<li>死没　1610年12月3日</li>
<li>享年　63歳</li>
</ul>
</div>
<p>本多忠勝は1548年に本多平八郎忠高の長男として、現在の岡崎市西蔵前町で生まれました。</p>
<p>本多家は松平家の古参の臣ですが、父・忠高は忠勝がわずか2歳のときに戦死してしまいます。</p>
<p>忠勝は叔父・忠真のもとで成長しました。</p>
<p>初陣は13歳、現代ではちょっと考えられない年齢です。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
これが戦国時代のシビアなところです。</p>
<p>忠勝が初めて首をとったのが14歳といいますから、さらに驚きです。
</p></div>
</div></div>
<p>現代では中学生にすぎない子どもが、殺し合いをしなければならない、それが戦国の掟です。</p>
<p>しかし、忠勝は戦争においてその本領を発揮するタイプの人間でした。</p>
<p>彼の能力を存分に生かせる場所は戦場なのです。</p>
<p>忠勝は典型的な戦闘的人間でした。</p>
<div class="m50"></div>
<p><a href="https://rekishigaiden.com/imagawayoshimoto/">今川義元</a>が桶狭間で討たれ、<a href="https://rekishigaiden.com/tokugawaieyasu/">徳川家康</a>が<a href="https://rekishigaiden.com/odanobunaga/">織田信長</a>と同盟を結んで勢力拡大につとめると、忠勝の活躍の場はいよいよ広がります。</p>
<p><span class="marker">戦場で縦横無尽に暴れまわる武人</span>として、その名声を高めていきます。</p>
<p>「鹿角脇立兜」と「蜻蛉切」は彼のトレードマークとして知られていくのです。</p>
<ul>
<li>1570年の姉川の合戦</li>
<li>1572年の一言坂の戦い、三方ヶ原の戦い</li>
<li>1575年の長篠の戦い</li>
<li>1584年の小牧・長久手の戦い</li>
</ul>
<p>など、徳川家の重要な戦いには常に忠勝の姿がありました。</p>
<p>「家康にすぎたるものがふたつあり。唐の頭と本多平八」</p>
<p>武田家の小杉左近によるこの狂歌は、のちにさまざまなパロディを生むほど有名になったものです。</p>
<p><a href="https://rekishigaiden.com/toyotomihideyoshi/">豊臣秀吉</a>にも「東の本多忠勝、西の立花宗茂」と並び称されるほど、有名な存在となっていきます。</p>
<div class="m50"></div>
<p>関ケ原の合戦以後は、伊勢桑名（三重県桑名市）10万石を領する大名となり、<span class="marker">桑名市発展の礎を築いた名君</span>として記憶されています。</p>
<p>1610年に本多忠勝は桑名で死去しました。</p>
<p>享年63歳でした。</p>
<p><!--Ads1--></p>
<h2>本多忠勝は何をした人？</h2>
<p>本多忠勝がその勇猛ぶりをいかんなく発揮した有名な戦い2つをご紹介しましょう。</p>
<p>まずは一言坂の戦いからです。</p>
<h3>一言坂の戦い</h3>
<p>これは1572年の戦いです。</p>
<p>舞台は遠江（静岡県西部）二俣城、プレイヤーは<a href="https://rekishigaiden.com/takedashingen/">武田信玄</a>と<a href="https://rekishigaiden.com/tokugawaieyasu/">徳川家康</a>です。</p>
<p>二俣城は戦略上の要地であり、ここを抑えたものは遠江を勢力圏にできる重要地点です。</p>
<p>なんとしても二俣城を死守したい家康でしたが、数で勝る武田軍は、二俣城への軍勢の展開の速さでも徳川軍を圧倒していました。</p>
<p>勝負は始めからついていたと言っていいでしょう。</p>
<p>本多忠勝はこの戦いにおいて殿をつとめ、徳川本隊を天竜川を越えて浜松に退却させるため、武田軍と死闘を繰り広げます。</p>
<p>本多軍と武田軍が激突したのが一言坂というところで、<span class="marker">忠勝の獅子奮迅の働きによって家康は天竜川を越えて退却することに成功しました。</span></p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
このとき武田軍で忠勝と戦ったのが小杉左近であり、例の狂歌、「家康に過ぎたるものがふたつあり。唐の頭と本多平八」というのは、この時の戦いの感慨を歌にしたものだと思われます。
</div>
</div></div>
<h3>小牧・長久手の戦い</h3>
<p><a href="https://rekishigaiden.com/odanobunaga/">織田信長</a>が本能寺に倒れた後、後継者として急速に台頭する<a href="https://rekishigaiden.com/toyotomihideyoshi/">羽柴秀吉</a>と織田信雄・<a href="https://rekishigaiden.com/tokugawaieyasu/">徳川家康</a>は1584年についに刃を交えることとなりました。</p>
<p>いわゆる小牧・長久手の戦いですが、この戦争は半年間にわたる長期戦となり、関ケ原のような両軍の会戦で勝敗を決する類のものではありませんでした。</p>
<p><span class="marker">本多忠勝が一役買ったのは長久手の戦いにおいて</span>です。</p>
<p>両軍あわせて2万ほどの軍勢が激突し、秀吉側の<a href="https://rekishigaiden.com/morinagayoshi/">森長可</a>が戦死した戦いですが、実は忠勝はこの激戦には参加していません。</p>
<p>忠勝の出番は、秀吉の本陣約2万を相手に、500人ほどの手勢で悠々と挑発した一件です。</p>
<p>秀吉がその気になれば本多忠勝隊を血祭にあげることもできたでしょうが、秀吉は常識的な行動を好まない男です。</p>
<p>悠然と愛馬に水を飲ませる忠勝を見逃しました。</p>
<p>忠勝の大胆不敵な行動に、敵である秀吉も感服したのです。</p>
<p><!--Ads2--></p>
<h2>本多忠勝のエピソード・逸話</h2>
<h3>蜻蛉切</h3>
<p>忠勝といえば<span class="marker">蜻蛉切（とんぼきり）</span>、といってもいいでしょう。</p>
<p>ひらりと飛ぶ蜻蛉が刃先で真っ二つに切れたという逸話をもつこの名槍は、忠勝を語るときになくてはならないものです。</p>
<p>当時の槍は2丈（約6m)が標準の長さといいますから、接近戦用ではなく、突撃を防ぐためのものでしょう。</p>
<p>蜻蛉切は柄の長さ1丈3尺（約4m)といいますから、相当短いです。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
使いやすさを考慮した結果でしょうか。
</div>
</div></div>
<h3>桑名藩主としての実績</h3>
<p>忠勝は<span class="marker">藩主として有能な一面もあった</span>ようです。</p>
<p>積極的な城下町の区画整理をおこない、現在の桑名市発展の基礎を築いた名君とされています。</p>
<p>戦闘のプロフェッショナルである忠勝が優れた行政能力をもっていたのは意外ですが、よくよく考えれば当然なのです。</p>
<p>戦場で何よりも必要なのは合理的精神です。</p>
<p>生き残るためには、勇猛さだけでは足りません。</p>
<p>合理的精神が絶対に必要です。</p>
<p>常に状況に応じた最適解を見つけ出さなければなりません。</p>
<p>生涯57回の戦場で傷一つ負わなかったという忠勝は、行政の手腕でも合理性を発揮したといえます。</p>
<h2>3行でわかる本多忠勝のまとめ</h2>
<div class="kaisetsu-box3">
<div class="kaisetsu-box3-title">まとめ</div>
<ul>
<li>根っからの戦争好き。戦いこそが存在理由。</li>
<li>腕っぷしも度胸も一人前以上。</li>
<li>統治者として有能な一面もあった。</li>
</ul>
</div>
<p>本多忠勝を一言でいうとすれば、「迷いのない人」といえるのではないでしょうか。</p>
<p>彼からは葛藤というものが感じられません。</p>
<p>行動原理はあくまでシンプルで、かつ力強いものです。</p>
<p>「主君と枕を並べて討死を遂げ、忠節を守るを指して侍という」</p>
<p>忠勝の言葉として伝えられているものです。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
忠勝自身の言葉かどうかは不明ですが、彼にふさわしい言葉ではないでしょうか。
</div>
</div></div>
<p>本質的に忠勝には葛藤がないため、ドラマがありません。</p>
<p>ドラマがないため一本調子になりがちなのです。</p>
<p>しかし、この点は彼の欠点とばかりはいえません。</p>
<p>戦国時代とは、そんな感傷を許さない世界だったかもしれないからです。</p>
<p>関ケ原の戦いで忠勝軍が首を90個とった、と事も無げに書かれていますが、首をとるということを具体的に想像してみれば、生首を90もぶら下げた軍勢の行進というのは、不気味でおぞましいものです。</p>
<p>忠勝が生きたのはそんな時代だった、ということを少しだけ想像してみるのも、大切なことなのではないでしょうか。</p>
]]></content:encoded>
					
					<wfw:commentRss>https://rekishigaiden.com/hondatadakatsu/feed/</wfw:commentRss>
			<slash:comments>0</slash:comments>
		
		
			</item>
		<item>
		<title>最上義光ってどんな人？鮭と妹が大好き？伊達政宗との関係は？</title>
		<link>https://rekishigaiden.com/yoshiaki/</link>
					<comments>https://rekishigaiden.com/yoshiaki/#respond</comments>
		
		<dc:creator><![CDATA[まさむね]]></dc:creator>
		<pubDate>Fri, 09 Aug 2019 06:58:04 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[戦国時代]]></category>
		<category><![CDATA[安土桃山時代]]></category>
		<category><![CDATA[江戸時代]]></category>
		<guid isPermaLink="false">https://rekishigaiden.com/?p=1068</guid>

					<description><![CDATA[戦国時代、現在でも注目される武将たちは日本の中心だった京都の近くにいて、戦を繰り返していました。 反面、あまり注目されていないのが東北地方です。 しかし、東北にも有名武将たちと並べて全く遜色がない英雄がいました。 それが]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>戦国時代、現在でも注目される武将たちは日本の中心だった京都の近くにいて、戦を繰り返していました。</p>
<p>反面、あまり注目されていないのが東北地方です。</p>
<p>しかし、東北にも有名武将たちと並べて全く遜色がない英雄がいました。</p>
<p>それが最上義光（もがみ よしあき）です。</p>
<h2>最上義光のプロフィール</h2>
<p>最上義光は1546年生まれ。</p>
<p>出羽最上＝山形を支配した最上家の祖・最上兼頼から数えて11代目にあたります。</p>
<p>義光が生まれた年に<a href="https://rekishigaiden.com/ashikagayoshiteru/">足利義輝</a>が室町幕府第十三代将軍になっています。</p>
<p>12歳のとき、父親の最上義守とともに上洛して足利義輝に拝謁。</p>
<p>「義」の一字をいただいて義光という名になりました。</p>
<div class="m50"></div>
<p>義光18歳のとき、妹の義姫が、領土を接する伊達家の伊達輝宗に嫁ぎます。</p>
<p>この輝宗の嫡男が<a href="https://rekishigaiden.com/datemasamune/">伊達政宗</a>。</p>
<p>義光は政宗の伯父にあたります。</p>
<div class="concept-box6">
<p>実は最上氏は、義守の養父・最上義定の代に伊達氏と戦って敗北し、伊達家の配下になっていました。</p>
<p>義守は、義定に嫡男がいなかったため、家督相続に伊達家が介入し、最上の傍流から養子に迎えられたという人物。</p>
<p>伊達家から強い影響を受けていました。</p>
</div>
<p>対して義光は、最上を伊達から独立させようと画策していました。</p>
<p>そのため父・義守との間で対立が生じ、結果義光が家督を相続して義守は出家することで収まりました。</p>
<h3>伊達家の支配下にあった最上家を独立させる</h3>
<p>義光26歳のとき、義守は義理の息子である輝宗と内通して義光を攻めます。</p>
<p>しかし、その攻撃をしのいだ義光は、輝宗と和議を結ぶとともに<span class="marker">伊達から独立を果たしました。</span></p>
<p>とはいえ、伊達家の配下に置かれていた最上氏には力がなく、領土内には複数の勢力が割拠する状況。</p>
<p>独立したのち、義光はまず最上の支配権確立に努めました。</p>
<h3>豊臣政権下での活躍</h3>
<p>義光は、伊達輝宗との和睦から10年を費やして、戦や和睦、あるいは謀殺などで各勢力を攻略し、最上全域を支配下に起きました。</p>
<p>義光42歳のとき、最上氏の親戚筋にあたり、同じように伊達の配下にあった大崎義隆を、すでに伊達家当主となっていた政宗が攻めます。</p>
<p>これは、大崎氏の内紛を利用して、独立を阻止すべく政宗が仕掛けた戦でした。</p>
<p>義光は大崎氏に加勢して政宗の軍を破ります。</p>
<p>そして、妹の義姫を介入させ、両者を和睦させました。</p>
<p>同年、義光は<a href="https://rekishigaiden.com/toyotomihideyoshi/">豊臣秀吉</a>から羽州探題のポストを与えられます。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
これは、時の覇者より正式に出羽の支配権を認められたということです。
</div>
</div></div>
<p>1590年の秀吉の小田原攻めでは、義光は政宗より遅れて参陣しました。</p>
<p>ただ、意図的に遅参した政宗とは違い、出陣を前に逝去した父親の葬儀を行っていたためで、<a href="https://rekishigaiden.com/tokugawaieyasu/">徳川家康</a>に根回ししていたこともあって、政宗のようなパフォーマンスを行わずに許されています。</p>
<h3>長谷堂城の戦い</h3>
<p>1600年、会津の上杉景勝に謀反の疑いありとして、<a href="https://rekishigaiden.com/tokugawaieyasu/">徳川家康</a>が<span class="marker">会津征伐</span>に出陣。</p>
<p>最上を含む東北諸勢力は家康側につきます。</p>
<p>ところが家康が会津に着く前に<a href="https://rekishigaiden.com/ishidamitsunari/">石田三成</a>が挙兵したため、家康は関ケ原へと転進。</p>
<p>残された諸家は、それを知り撤退。</p>
<p><a href="https://rekishigaiden.com/datemasamune/">伊達政宗</a>に至っては<a href="https://rekishigaiden.com/uesugikenshin/">上杉謙信</a>と和睦を結びました。</p>
<p>義光も上杉との和睦を模索するものの失敗し孤立。</p>
<p>上杉は直江兼続に2万の兵を与えて最上を攻撃させます。</p>
<p>義光はその半分以下の兵力で善戦するものの、長谷堂城を包囲されてしまいます。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
長谷堂城を抜かれると、本拠地山形城に攻め込まれるという状況です。
</div>
</div></div>
<p>しかし、家康が関ヶ原であっさり勝ってしまったため、兼続はその包囲をといて撤退。</p>
<p>義光は九死に一生を得ました。</p>
<div class="m50"></div>
<p>結果的に東北に上杉を釘付けにすることに成功した義光は、<span class="marker">家康より57万石の所領を安堵され、出羽山形藩の藩祖となります。</span></p>
<p>徳川の支配が安定すると、戦から開放された義光は内政につとめ、山形藩を発展させていきました。</p>
<p>68歳のとき、体調不良をおして駿府城赴き、家康に拝謁した義光は、家康から薬を与えられました。</p>
<p>その薬も功を奏せず、69歳のとき山形城で病没しました。</p>
<h2>最上義光は何をした人？</h2>
<p>最上義光は、没後に知勇あわせもつ武将として讃えられています。</p>
<p><span class="marker">山形の安定化、発展につとめた人物</span>でした。</p>
<h3>硬軟併せ持つ戦上手</h3>
<p><a href="https://rekishigaiden.com/odanobunaga/">織田信長</a>は戦国大名の中でいち早く鉄砲の有効性に気が付き、鉄砲軍団を作ったことで知られています。</p>
<p>それがいかに正しかったかは、1575年の長篠の戦いで証明されました。</p>
<p>でもそのような先進的な発想を持っていたのは信長だけではありません。</p>
<p>義光もまた鉄砲に目をつけて、わざわざ堺から鉄砲鍛冶を招聘しています。</p>
<p>長篠の戦いの前年、1574年に起きた伊達輝宗との戦いを有利に進められたのも鉄砲隊のおかげだと考えられています。</p>
<p>直江兼続の山形侵攻において、半分以下の兵力でもちこたえたのも鉄砲隊の火力があったからでした。</p>
<div class="m50"></div>
<p>しかし、義光の強さはそうした戦闘力のみではありませんでした。</p>
<p>10年に及ぶ最上平定では、敵の一部を調略により裏切らせ、内紛を起こさせるといった作戦を何度か成功させています。</p>
<p>最上をさしおいて信長に出羽守への推戴を願い出た白鳥長久は、偽情報でおびき寄せて殺しています。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
こうしたやり方は変に日本人に嫌われるので、義光を謀略家のように言う人もいます。</p>
<p>しかし、兵力を消耗せずに勝利するのは兵法にもかなったやり方で、優れた戦上手であると言えます。
</p></div>
</div></div>
<h3>内政につとめ領民に慕われる</h3>
<p>山形藩を得た義光は、山形城下の経済発展を行いました。</p>
<p>まず商人や職人に城下の土地を与え、税金を免除して商売を始めやすくしています。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
現在でも有名な山形の鋳物は、義光による職人保護により発展しました。
</div>
</div></div>
<p>最上川を整備し水運を活発化。</p>
<p>酒田港への道路を整備するなどして、藩の運輸能力を高めました。</p>
<p>さらには農業用水を確保して農地拡大により生産力を向上させています。</p>
<p>領内では年貢以外の税金をとらない殿様だとして領民から慕われていました。</p>
<p>また、病人、高齢者には扶持米を与えるという福祉政策も行っています。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
こういう人は名君と呼ぶにふさわしいと思います。
</div>
</div></div>
<h2>最上義光のエピソード・逸話</h2>
<p>哺乳類は寒冷地だと体温維持のために大型化します。</p>
<p>その影響なのかどうか、最上義光は180cm以上という大男で、大力の豪傑でした。</p>
<p>山形には義光の剛力伝説のようなものがいくつか残っています。</p>
<p>しかし、だからといって傍若無人ということはなく、むしろ気が優しい力持ちだったようです。</p>
<h3>妹大好き兄ちゃん</h3>
<p>義姫は義光の2歳年下の妹です。</p>
<p>義光はラノベ主人公並みに妹のことをかわいがっていたようで、義姫が伊達に嫁いでからも、「兄ちゃんまた義姫ちゃんと会っていろんなことお話したいよー」などという手紙を出しています。</p>
<p>義光の読みが「よしあき」だと判明したのも、妹への手紙にひらがなでそう書いてあったおかげでした。</p>
<p>妹のほうもそんな兄を慕っていた様子で、夫の伊達輝政と兄の争いでは、なんでお兄ちゃんと仲良くできないのと輝政のほうを諌める形で間に入りました。</p>
<p>後に大崎家を巡って義光と政宗が対立したときも、義光は妹の説得を受けて停戦しています。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
ただ、これは伊達との大規模決戦を避けたい義光が妹に要請したものだとも言われています。
</div>
</div></div>
<h3>鮭大好き</h3>
<p>最上義光は、鮭好きとして知られています。</p>
<p>家臣に「鮭様」と呼ばれるレベルで鮭が好きだったようです。</p>
<p>義光が偉いのは、自分が鮭を食べるだけではなく、布教活動もしていたということ。</p>
<p>大好きな鮭を独り占めせず、家臣に配り、甥にあたる伊達政宗にプレゼントし、<a href="https://rekishigaiden.com/tokugawaieyasu/">徳川家康</a>にも献上しています。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
最上川の水運を発展させたのも鮭を入手しやすくするためだという噂があるとかないとか？
</div>
</div></div>
<h2>5行でわかる最上義光のまとめ</h2>
<p>山形の大名最上義光のまとめです。</p>
<div class="kaisetsu-box3">
<div class="kaisetsu-box3-title">まとめ</div>
<ul>
<li>仙台伊達家の支配下にあった最上家を独立させる</li>
<li>山形を統一</li>
<li>いち早く鉄砲軍団を組織し、寡兵をもって大軍に対する</li>
<li>一代にして領土を57万石に拡大</li>
<li>領地の経済、文化を発展させる</li>
</ul>
</div>
<p>領地を統一、発展させ、鉄砲隊を組織、調略も武勇も強い。<br />
これはまるで<a href="https://rekishigaiden.com/odanobunaga/">織田信長</a>です。</p>
<p>最上義光がもう少しはやく、そしてもう少し都の近くに生まれていたら、天下統一を成し遂げたのは最上義光だったかもしれません。</p>
]]></content:encoded>
					
					<wfw:commentRss>https://rekishigaiden.com/yoshiaki/feed/</wfw:commentRss>
			<slash:comments>0</slash:comments>
		
		
			</item>
		<item>
		<title>中川清秀はどんな人？荒木村重の運命を握っていた不運の戦国武将</title>
		<link>https://rekishigaiden.com/nakagawakiyohide/</link>
					<comments>https://rekishigaiden.com/nakagawakiyohide/#respond</comments>
		
		<dc:creator><![CDATA[まさむね]]></dc:creator>
		<pubDate>Mon, 05 Aug 2019 07:23:28 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[戦国時代]]></category>
		<category><![CDATA[安土桃山時代]]></category>
		<guid isPermaLink="false">https://rekishigaiden.com/?p=1013</guid>

					<description><![CDATA[歴史上の偉人の多くは、乱世を生き残り自分の存在を歴史に記すことができた人が多くを占めています。 しかし、その時代の中で不運にも命を落としたため、時の政権下で名前を残すことができなかった人物も多く存在しています。 中川清秀]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>歴史上の偉人の多くは、乱世を生き残り自分の存在を歴史に記すことができた人が多くを占めています。</p>
<p>しかし、その時代の中で不運にも命を落としたため、時の政権下で名前を残すことができなかった人物も多く存在しています。</p>
<p>中川清秀はそんな戦国武将の一人ではないでしょうか。</p>
<p>一時、摂津国に12万石の領地を持っていた清秀ですが、どのような生涯を辿ったのか詳しく見てみたいと思います。</p>
<h2>中川清秀のプロフィール</h2>
<div class="simple-box1">
<ul>
<li>名前：中川清秀（なかがわきよひで）</li>
<li>別名：瀬兵衛（せびょうえ）</li>
<li>享年：42歳（1542年～1583年）</li>
<li>摂津国の戦国武将として池田氏や荒木氏に仕える。のちに信長や秀吉に仕えて秀吉の勢力拡大に貢献する。</li>
</ul>
</div>
<h2>中川清秀は何をした人？</h2>
<p>中川清秀は摂津国の戦国武将として<a href="https://rekishigaiden.com/odanobunaga/">織田信長</a>が勢力を拡大しつつある中、独自の勢力として活躍していましたが、自分が所属する勢力が弱体化する中で信長に降伏する道を選びました。</p>
<p>また、自身が所属していた<a href="https://rekishigaiden.com/arakimurashige/">荒木村重</a>が信長に反旗を翻したために、再び信長に対抗するなど、敵対する陣営を何度も行き来したりもしました。</p>
<p>最終的に<a href="https://rekishigaiden.com/toyotomihideyoshi/">羽柴秀吉</a>の陣営下に入り秀吉の武将として活躍しますが、秀吉が権力を手中に収める過程の中で戦死してしまいます。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
もし生きていれば豊臣政権下の有力大名として活躍していたのかもしれません。
</div>
</div></div>
<p>では、具体的にどのような活躍をした人物なのか詳しく見てゆきたいと思います。</p>
<h2>中川清秀のエピソード・逸話</h2>
<h3>摂津国（現大阪府北部）の戦国武将として誕生し池田氏に仕える</h3>
<p>中川氏はもともと、清和源氏の一派として<span class="marker">摂津国に勢力を持つ小さな国人領主でした。</span></p>
<p>その後、池田氏に仕えるようになったために、池田氏の属将として活躍し、<a href="https://rekishigaiden.com/odanobunaga/">織田信長</a>と戦っていました。</p>
<p>池田氏の勢力が弱体化すると、織田信長の陣営に入りともに池田氏の元で一緒に戦っていた<a href="https://rekishigaiden.com/arakimurashige/">荒木村重</a>の家臣として織田軍の一員として中国地方などで戦う事になりました。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
小さな領主にとって大きな勢力が近づいてくると、従順な態度を取らなければ攻め滅ぼされてしまうので、中川家にとっては賢明な判断をしたのだと思います。
</div>
</div></div>
<h3>荒木村重の運命を握っていた？</h3>
<p>天正六年、従っていた<a href="https://rekishigaiden.com/arakimurashige/">荒木村重</a>が突然<a href="https://rekishigaiden.com/odanobunaga/">織田信長</a>に反旗を翻しました。</p>
<p>村重の反乱の原因として、中川清秀の家臣が当時織田家に敵対していた石山本願寺に食糧を横流ししていた事が判明したために、処罰を恐れて謀反を起こしたとも言われていますが、他にもいろいろな説があるので真実かどうかわかりません。</p>
<p>また、荒木村重が反乱した際に信長に謝りに行くという事になった時に、「安土城に向かえば殺されるかもしれない」と助言したとも言われ、村重は引き返し謝罪に行かなかったとも伝えられています。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
<span class="marker">村重の反乱の原因となり、信長に謝りに行かせない助言をした</span>という事は村重の運命を握っていた人物であったのかもしれません。
</div>
</div></div>
<h3>従兄弟の高山右近と多くの戦場を共にする</h3>
<p>清秀は、キリシタン大名であった<span class="marker">高山右近（たかやまうこん）と常に行動を共にしていました。</span></p>
<p>それは、父親同士が兄弟でありお互いが従兄弟同士という間柄があったという事も関係しています。</p>
<p>若いころはともに、戦国大名の池田氏に仕え、<a href="https://rekishigaiden.com/odanobunaga/">織田信長</a>の勢力が強まると<a href="https://rekishigaiden.com/arakimurashige/">荒木村重</a>とともに信長に付き、村重が反旗を翻すと同様に信長に反旗を翻し、その後、高山右近とともに再び信長側に付きます。</p>
<p>信長の弔い合戦である山崎の戦いでも高山右近とともに<a href="https://rekishigaiden.com/toyotomihideyoshi/">豊臣秀吉</a>側の陣営として活躍しました。</p>
<p>その後、柴田勝家軍と対決する賤ヶ岳の戦いも一緒に秀吉側の陣営として戦いますが、中川清秀は不運にも戦死してしまいます。</p>
<p>歴史の転換点となる大きな合戦には高山右近とともに常に清秀の姿がありました。</p>
<h2>幻の賤ヶ岳八本槍</h2>
<p><span class="marker">賤ヶ岳の戦い</span>で羽柴軍に所属して活躍した七人の武将を「賤ヶ岳七本槍」と呼びます。</p>
<p>この中には加藤清正や福島正則といった秀吉にゆかりのある武将などが含まれています。</p>
<p>中川清秀は秀吉側の武将としてこの戦いに参加しましたが、不運にもこの戦いで戦死してしまいます。</p>
<p>大名級で戦死した唯一の武将でした。</p>
<p>江戸時代に作られた『太閤記』の中では「賤ヶ岳七本槍」という活躍した武将が描かれますが、もし中川清秀が生きていたらこの中に含まれて「八本槍」であったとも伝えられています。</p>
<h2>5行でわかる中川清秀のまとめ</h2>
<div class="kaisetsu-box3">
<div class="kaisetsu-box3-title">まとめ</div>
<ul>
<li>摂津国の小勢力として誕生する。</li>
<li>荒木村重の運命を握る！？</li>
<li>村重から離れ再び信長に降伏する。</li>
<li>従兄弟の高山右近と常に行動を共にする。</li>
<li>幻の賤ヶ岳「八本槍」、賤ヶ岳の戦いで戦死する。</li>
</ul>
</div>
<p>中川清秀は摂津国の国人領主として小さな勢力を保っていましたが、<a href="https://rekishigaiden.com/odanobunaga/">織田信長</a>や<a href="https://rekishigaiden.com/arakimurashige/">荒木村重</a>らの間で寝返りを繰り返し、自身の所属する勢力を見定めていたのかもしれません。</p>
<p>そんな行動の中には常に従兄弟であったキリシタン大名の高山右近の姿があり、のちの時代の行く末を決める「山崎の戦い」や「賤ヶ岳の戦い」などでもともに行動しました。</p>
<p>摂津国の小さな勢力の戦国武将ではありましたが、信長や秀吉からは大いに認められていたようです。</p>
<p>最終的に<a href="https://rekishigaiden.com/toyotomihideyoshi/">豊臣秀吉</a>の勢力下で奮闘しますが、清秀はその勢力拡大の過程で戦死してしまいました。</p>
<p>秀吉の政権下で子孫は活躍しますが、秀吉から叱責を受けて取潰しの恐れがあった時に、賤ヶ岳の戦いで清秀の死という貢献があったおかげで、取潰しを免れた事もありました。</p>
<p>秀吉政権の樹立に清秀が命を懸けて尽力したという事実が、中川家の子孫を守る事になりました。</p>
]]></content:encoded>
					
					<wfw:commentRss>https://rekishigaiden.com/nakagawakiyohide/feed/</wfw:commentRss>
			<slash:comments>0</slash:comments>
		
		
			</item>
		<item>
		<title>伊達政宗ってどんな人？わかりやすく簡単にまとめてみました</title>
		<link>https://rekishigaiden.com/datemasamune/</link>
					<comments>https://rekishigaiden.com/datemasamune/#comments</comments>
		
		<dc:creator><![CDATA[まさむね]]></dc:creator>
		<pubDate>Mon, 05 Aug 2019 05:47:57 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[戦国時代]]></category>
		<category><![CDATA[安土桃山時代]]></category>
		<category><![CDATA[江戸時代]]></category>
		<guid isPermaLink="false">https://rekishigaiden.com/?p=929</guid>

					<description><![CDATA[伊達政宗を知らない人はいないのではないでしょうか。 この記事では戦国時代の人物として抜群の知名度をもつ伊達政宗について、どんな人物なのか、何をした人物なのかをご紹介していきます。 どんな生涯をおくったのか、まずは確認して]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>伊達政宗を知らない人はいないのではないでしょうか。</p>
<p>この記事では戦国時代の人物として抜群の知名度をもつ<span class="marker">伊達政宗について、どんな人物なのか、何をした人物なのか</span>をご紹介していきます。</p>
<p>どんな生涯をおくったのか、まずは確認していきましょう。</p>
<h2>伊達政宗のプロフィール</h2>
<div class="simple-box1">
<ul>
<li>生誕　1567年8月3日</li>
<li>死没　1636年5月24日</li>
<li>享年　70歳</li>
</ul>
</div>
<p>政宗は1567年、米沢城（山形県米沢市）に生まれました。</p>
<p>伊達家16代当主輝宗を父として、<a href="https://rekishigaiden.com/yoshiaki/">最上義光</a>の妹・義姫を母として誕生しました。</p>
<p>父・輝宗はやがて悲劇的な死を迎え、母・義姫は最上義光とともに政宗にとって厄介な存在となっていきます。</p>
<p>伊達家は、当時すでに、奥州では米沢を中心として現在の宮城県南部にその影響力をもつ大勢力でした。</p>
<p>政宗はその名家をつぐべき長男として生まれたわけですが、幼いころは恥ずかしがりやで、家臣たちにその将来を危ぶまれていたと伝えられています。</p>
<p>母・義姫もなぜか長男の政宗を好かず、次男の小十郎にその愛情を注ぎました。</p>
<p>母からも愛されず、家臣にも疑惑の目を向けられる政宗でしたが、父・輝宗は政宗を深く愛していたようです。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
輝宗の政宗への書状には細やかな心遣いが感じられます。
</div>
</div></div>
<h3>右目を失明</h3>
<p>5歳のころ、病気のため右目を失明します。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
右目を失ったことは政宗にとって大きなコンプレックスだったようです。</p>
<p>後年の肖像には右目を描かせた作品も残っているからです。
</p></div>
</div></div>
<p>右目を失ったことは、恥ずかしがりやの少年をさらに内向的にしたのではないかと想像されます。</p>
<h3>家督相続後の活躍</h3>
<p>しかし、18歳で家督を継いだあとの政宗は、まさに別人のような活躍を見せ始めます。</p>
<p>あるいは、もともとの素質が開花したといっていいのかもしれません。</p>
<p>1585年に政宗の良き理解者であった父・輝宗が畠山善継に殺害されると、翌年には畠山氏の居城・二本松城を攻め、救援の蘆名・佐竹らの連合軍と干戈を交えます。</p>
<p>一年余りを費やし、二本松城を手に入れた政宗の次なる目標は会津の蘆名氏、そしてその背後にいる常陸（茨城県）の佐竹義重です。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
「鬼義重」との異名をとる佐竹義重は百戦錬磨のつわものです。
</div>
</div></div>
<p>この佐竹氏と事をかまえるためには、伊達家の背後、つまり北方を抑えておくことが肝要です。</p>
<p>現在の宮城県北部と岩手県南部に穏然たる勢力をもっていたのが大崎氏で、政宗が大崎氏の攻略に動きます。</p>
<p>しかし、大崎氏との戦は思うように進まず、さらに<a href="https://rekishigaiden.com/yoshiaki/">最上義光</a>が不穏な動きを見せます。</p>
<p>母・義姫の斡旋で最上・大崎氏とひとまず和睦し、事なきを得ました。</p>
<p>同時期に蘆名氏では当主が幼年で死去し、後継として佐竹義重の息子義広が蘆名氏に入ってあとを継ぎました。</p>
<p>これで会津・蘆名氏は実質、佐竹氏の勢力圏です。</p>
<p>いよいよ伊達家と蘆名家の激突は目前に迫ってきました。</p>
<p>1589年、両者は摺上原で激突します。</p>
<p>伊達の軍勢およそ2万3000にたいして、蘆名軍は1万6000です。</p>
<p>この戦いに勝利した政宗は、福島県の浜通り以外のほぼ全域を勢力圏におさめます。</p>
<h3>戦国時代の終焉</h3>
<p>しかし、政宗の快進撃もここまででした。</p>
<p><a href="https://rekishigaiden.com/toyotomihideyoshi/">豊臣秀吉</a>による日本統一はもはや目前だったからです。</p>
<p>戦国時代はひとまず終わりを告げ、秩序形成の時代に入ったのです。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
政宗があと10年早く生まれていれば、と言われる所以です。
</div>
</div></div>
<p>その後、秀吉から<a href="https://rekishigaiden.com/tokugawaieyasu/">徳川家康</a>へと支配者が交代していく中で、政宗は家康との関係を深めていき、仙台藩62万石の大名として、その後の仙台市発展の基礎を築きました。</p>
<p>3代将軍・<a href="https://rekishigaiden.com/tokugawaiemitsu/">徳川家光</a>には「伊達の親父殿」と慕われ、70年の生涯を畳の上で全うすることができました。</p>
<p>政宗も晩年はさすがに大人しくなりましたが、秀吉時代には一揆を扇動して関与を疑われ、徳川家の天下となっても、家臣の<a href="https://rekishigaiden.com/hasekuratsunenaga/">支倉常長</a>をヨーロッパに派遣するなど、野心的な試みをあきらめなかった点が、他の戦国大名とは一線を画すところです。</p>
<h2>伊達政宗は何をしたひと？</h2>
<h3>24歳で奥州を席捲する</h3>
<p>政宗が摺上原の合戦で蘆名・佐竹連合軍を破った後、伊達家の版図は最大となります。</p>
<p>居城の米沢をはじめ、宮城県の中部・南部、福島県の浜通り以外のほぼ全域を手中におさめたのです。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
まさに大大名といったところで、驚くべきは、当時政宗が24歳の若者にすぎなかったことでしょう。</p>
<p>引き継いだ伊達家の所領があったにしても、たかが24歳の若者が家臣団をまとめあげ、さらに最上義光などの曲者を牽制しつつ、蘆名家を滅ぼすという大事業をやってのけるというのは、やはり只者ではない証拠です。
</p></div>
</div></div>
<h3>派手なパフォーマンスで危地を脱する</h3>
<p><a href="https://rekishigaiden.com/toyotomihideyoshi/">豊臣秀吉</a>による全国統一の総仕上げともいうべき北条氏小田原攻めに政宗は遅参します。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
理由はいろいろありますが、本質は政宗自身の迷いにあるのではないでしょうか。</p>
<p>何度となく催促されても、なかなか参陣を決断できなかったのには、自身の成功に裏打ちされた情勢認識の甘さがあったのかもしれません。</p>
<p>いずれにしても、政宗は参陣することを決断しました。
</p></div>
</div></div>
<p>遅参した政宗は、秀吉の謁見もしばらくお預けになってしまいます。</p>
<p>さんざん待たされたあげく、いよいよ謁見というとき、政宗は死に装束といういで立ちで秀吉のもとに向かいます。</p>
<p>秀吉は持っていた杖を政宗の首にあて、「もう少し遅ければ、命はなかったぞ」と政宗に語りかけたそうです。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
秀吉にしてみれば政宗はまだまだ若造にすぎませんが、死に装束で謁見の間にくるというパフォーマンスは秀吉の好みそうな行為です。
</div>
</div></div>
<div class="m50"></div>
<p>この死に装束パフォーマンスを政宗はもう一回使っています。</p>
<p>2回目は大崎・葛西一揆のときです。</p>
<p>北条氏を滅ぼし、日本全国を統一した秀吉は、奥州も再編成します。</p>
<p>伊達家は、領地だった会津や岩瀬、安積などを没収され、会津には名将・蒲生氏郷が移ってきます。</p>
<p>伊達家の北方に勢力をもっていた大崎氏と葛西氏は領地を没収され、かわりに秀吉の家臣である木村吉清が統治することになりました。</p>
<p>政宗は北に木村、南は蒲生氏郷と秀吉譜代の臣に挟み撃ちにされた格好です。</p>
<p>この木村領で大崎・葛西の旧臣を中心にして一揆が発生します。</p>
<p>実はこの一揆が政宗のそそのかしによるものではないか、という報告が氏郷から秀吉に伝えられます。</p>
<p>氏郷は証拠として政宗の花押入りの書状まで入手していました。</p>
<p>またもや政宗のピンチです。</p>
<p>今回も政宗は死に装束のパフォーマンスです。</p>
<p>しかも金箔の磔柱を持参するという念の入れようです。</p>
<p>証拠とされる書状については、知らないとしらを切り、捏造だとの主張を通しました。</p>
<p>秀吉も内心では政宗の関与があったと思っていたでしょうが、いくつかの領地の没収で済ませました。</p>
<p>しかもそのうえ、大崎・葛西の旧領地12郡まで政宗に与えました。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
責任をもって大崎・葛西一揆を始末しろということでしょうか。</p>
<p>何だかんだいっても政宗は秀吉のお気に入りだったのでしょう。
</p></div>
</div></div>
<p>政宗は喜び勇んで一揆を鎮圧しています。</p>
<div class="m50"></div>
<p>ちなみに、今回のような一揆を扇動して領地拡大作戦を政宗は懲りずにもう一回使っています。</p>
<p>関ケ原の合戦のときです。</p>
<p>岩手県と青森県東部を領土とする南部氏の領内で起きた和賀一揆がそれです。</p>
<p>当主の南部信直に不満をもつ分子を扇動し、一揆をおこさせ、どさくさにまぎれて領土をかすめ取ろうというのです。</p>
<p>しかし、今回は政宗の扇動であることが完全にバレてしまい、<a href="https://rekishigaiden.com/tokugawaieyasu/">徳川家康</a>の「百万石のお墨付き」、味方になってくれたら100万石をやるという書状ですが、この約束が反故にされてしまうという落ちがつきました。</p>
<h3>支倉常長をヨーロッパに派遣する</h3>
<p>1613年には家臣の<a href="https://rekishigaiden.com/hasekuratsunenaga/">支倉常長</a>をヨーロッパに派遣しています。</p>
<p>その目的は通商とも、スペインの力を借りての幕府の転覆ともさまざまな説があります。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
この遣欧使節の派遣もさしたる結果を生んだわけではありませんでしたが、ヨーロッパまで視野にいれるというのは、政宗のキャラクターにふさわしい雄大さではありますね。
</div>
</div></div>
<h2>伊達政宗のエピソード・逸話</h2>
<p>政宗のエピソードは数多くありますが、複雑な彼のキャラクターを象徴する二つのエピソードを紹介しましょう。</p>
<p>武人としての政宗と文人としての政宗と。</p>
<h3>大坂の陣で敵もろとも味方の軍も皆殺しにする</h3>
<p>これは大坂夏の陣での出来事です。</p>
<p>5月7日の道明寺口の戦いで、伊達軍の前方にいた神保相茂軍36名を銃撃し、皆殺しにしてしまった事件です。</p>
<p>戦後、神保家は伊達家に抗議しましたが、政宗は「伊達の軍法に敵味方の差別はない」と相手にせず、一万石に満たない小大名であった神保家はそのまま泣き寝入りするしかなかったということです。</p>
<h3>和歌、茶道などに通じた教養人</h3>
<p>幼いころから虎哉宗乙のような名僧の教育を受けた政宗は、和歌・書・茶道などさまざまな分野で深い教養を身につけていました。</p>
<p>特に和歌はお気に入りだったようで、多くの歌が残されています。</p>
<p>代表的なものを一首ご紹介しましょう。</p>
<div class="simple-box9">
<p>いつ見ても　はじめてむかふ心かな　たびたびかはる不二のけしきは</p>
</div>
<p>不二は富士であり、また仏教でいう対立のない世界、すなわち「空」であります。</p>
<p>ささやかな文言から、政宗の教養の深さが伺えます。</p>
<h2>3行でわかる伊達政宗のまとめ</h2>
<div class="kaisetsu-box3">
<div class="kaisetsu-box3-title">まとめ</div>
<ul>
<li>24歳の若さで奥州随一の勢力にのし上がる</li>
<li>こそこそした陰謀が好きだが、露見したときの謝罪は派手</li>
<li>戦場では味方でも容赦しない冷徹さ</li>
</ul>
</div>
<p>人気実力ともに戦国屈指の武将である伊達政宗は、実に多彩な側面をもった魅力的な人物です。</p>
<p>政宗に興味を持たれた方は、ぜひ仙台市にも足をお運びください。</p>
<p>瀟洒な東北の都会・仙台市で、政宗を偲ぶのも素敵な経験になると思いますよ。</p>
]]></content:encoded>
					
					<wfw:commentRss>https://rekishigaiden.com/datemasamune/feed/</wfw:commentRss>
			<slash:comments>15</slash:comments>
		
		
			</item>
		<item>
		<title>荒木村重はどんな人？織田信長に謀反を起こした一族を置いて逃げた武将の生涯に迫る</title>
		<link>https://rekishigaiden.com/arakimurashige/</link>
					<comments>https://rekishigaiden.com/arakimurashige/#respond</comments>
		
		<dc:creator><![CDATA[まさむね]]></dc:creator>
		<pubDate>Tue, 30 Jul 2019 09:22:16 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[戦国時代]]></category>
		<category><![CDATA[安土桃山時代]]></category>
		<guid isPermaLink="false">https://rekishigaiden.com/?p=938</guid>

					<description><![CDATA[戦国時代に大名に仕える武将たちにも様々な性格の人物が存在していました。 信念が強い者、優柔不断な者、臆病な者など様々だったと思います。 この記事で取り上げる荒木村重という武将は表面的には強い武将ではありましたが、内面的に]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>戦国時代に大名に仕える武将たちにも様々な性格の人物が存在していました。</p>
<p>信念が強い者、優柔不断な者、臆病な者など様々だったと思います。</p>
<p>この記事で取り上げる荒木村重という武将は表面的には強い武将ではありましたが、内面的にはとても臆病な一面を持ち、その臆病さが自らの築き上げてきたものを失う結果となりました。</p>
<p>では、村重がどのような事をした人物なのかみてゆきたいと思います。</p>
<h2>荒木村重のプロフィール</h2>
<div class="simple-box1">
<ul>
<li>名前：荒木村重（あらきむらしげ）</li>
<li>別名・官位：十二郎、道糞、道薫、摂津守</li>
<li>享年：52歳（1535～1586）</li>
<li>実力を認められ<a href="https://rekishigaiden.com/odanobunaga/">織田信長</a>に仕えるも、謀反を起こしたのち一族を見捨てて逃亡する。</li>
</ul>
</div>
<h2>荒木村重は何をした人？</h2>
<p>荒木村重は<span class="marker">織田信長に仕えて反旗を翻した武将</span>として知られていますが、その村重を有名にしたのは一族や家臣たちを置き去りにして自らが逃亡してしまったために残されたものが処刑されたという悲しいエピソードではないでしょうか。</p>
<p>この悲惨な事件を起こすきっかけとなった村重の心変わりとなった要因は詳しくはわかっていませんが、残されたエピソードから村重の性格が見えてくると思います。</p>
<p>村重の成り上がりや信長・秀吉にかかわるエピソードを交えながら以下で詳しく人物像を見てゆきます。</p>
<h2>荒木村重のエピソード・逸話</h2>
<h3>織田信長に仕え摂津一国を任せられる</h3>
<p>もともとは摂津国（現大阪府北部）の池田氏や三好氏に仕える家臣でしたが、<a href="https://rekishigaiden.com/odanobunaga/">織田信長</a>が近畿地方に勢力を広げる過程でその<span class="marker">性格を気に入られて織田家の家臣となりました。</span></p>
<p>後に、かつて仕えていた池田氏を自らの家臣としたので、荒木村重も下剋上によって成り上がった戦国武将の一人と言えるでしょう。</p>
<p>村重は摂津国の全域を信長から任される事となり、その信頼されていた大きさが伺えます。</p>
<h3>信長の刀に刺さった餅を食べる</h3>
<p>『絵本太閤記』にあるエピソードなので史実かどうかわかりませんが、村重が信長に謁見した時に信長が刀に差した餅を村重に差し出したという話があります。</p>
<p>これに対して村重は従順に差し出された餅を一口で食べて、餅で汚れた刀の切っ先を自らの服の袖でキレイに拭いて返したと言われています。</p>
<p>この行動を信長に賞賛されて摂津の国を荒木村重に任せたという事です。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
エピソードの真偽について史実かどうかわかりませんが、村重の豪快さや人物などが確認できる事象ではないでしょうか。</p>
<p>少なからず村重の人間性が後世へ伝えられた証拠なのかもしれません。
</p></div>
</div></div>
<h3>信長に反旗をひるがえす</h3>
<p>織田氏が中国地方に向けて勢力を拡大する中、1578年に村重は<span class="marker">突如信長に対して反乱を起こしました。</span></p>
<p><a href="https://rekishigaiden.com/toyotomihideyoshi/">羽柴秀吉</a>は中国地方の最前線で戦っていたので、背後を村重にとられる形となったのです。</p>
<p>これは、村重が秀吉と戦っていた毛利氏と繋がっていたとも、大阪の本願寺勢力と繋がっていたとも、信長に対する積年の恨みであったとも言われています。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
後世に様々な説が考察されるという事は、村重自身も実際に様々な勢力と何かしらの繋がりがあったのかもしれません。</p>
<p>それだけ行動力があり、諸勢力とも接点を持つ事のできる人物だったのではないでしょうか。
</p></div>
</div></div>
<h3>説得しに来た黒田官兵衛を幽閉</h3>
<p>摂津国の有岡城に立てこもった村重ですが、そんな村重を説得するために羽柴秀吉から派遣された<span class="marker">軍師の黒田官兵衛を捉えて牢屋に約1年間幽閉</span>します。</p>
<p>有岡城の降伏とともに<a href="https://rekishigaiden.com/kurodakanbe/">黒田官兵衛</a>は解放されましたが、牢屋での生活で足を悪くしたためにこれ以降は杖を使い足を引きずって生活したと言われています。</p>
<h3>自らは脱走し残された一族は皆殺しとなる</h3>
<p>信長に反旗を翻してから約1年が経過すると村重も次第に不利となってきました。</p>
<p>信長からは降伏するならば命は助けようと言われていましたが、<span class="marker">村重は家族や家臣たちを居城に残したまま逃げ出してしまいました。</span></p>
<p>このため、有岡城に残っていた女性たちや一族の家族など100人を超す人々が捉えられて見せしめのために処刑されてしまいました。</p>
<p>この話は様々な歴史書などでも取り上げられており、悲劇の話として語り継がれています。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
なお、この時に一族の中には生き残りもいたとされ、江戸時代に浮世絵師として活躍する岩佐又兵衛は荒木村重の子供と言われています。
</div>
</div></div>
<h3>毛利家に出奔し茶人として活躍するも……</h3>
<p>有岡城を抜け出した村重はのちに毛利氏の元へ亡命します。</p>
<p>その後、信長が本能寺で亡くなると安心したのか境に移り住み、<a href="https://rekishigaiden.com/sennorikyu/">千利休</a>と親交を持ち茶人として活躍します。</p>
<p>その後、秀吉の悪口を言った事が広まってしまうと、処刑を恐れて出家して荒木道薫と名乗りました。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
異端児でありながらも自分に「死」が及ぶ可能性が生じると保身に走るような部分が各所で垣間見られることからも、村重は臆病な性格であったのかもしれません。
</div>
</div></div>
<h2>4行でわかる荒木村重のまとめ</h2>
<div class="kaisetsu-box3">
<div class="kaisetsu-box3-title">まとめ</div>
<ul>
<li>摂津国池田氏の家臣であったが信長に気に入られて家臣になる。</li>
<li>信長に反旗を翻して謀反を起こし、説得にあたった黒田官兵衛を幽閉する。</li>
<li>居城に一族を残したまま自らが逃亡したため、一族は皆殺しになる。</li>
<li>毛利氏の元に身を寄せ、のちに堺で茶人として活躍する。</li>
</ul>
</div>
<p>荒木村重は小さな戦国武将に仕える一介の武将にすぎませんでしたが、<a href="https://rekishigaiden.com/odanobunaga/">織田信長</a>に見いだされて取り立てられたおかげで摂津国を治めるという重要なポストを与えられました。</p>
<p>刀に刺さった餅を喰らうというようなエピソードや、元々仕えていた殿様を下剋上ののちに自らの家臣にするというような豪快なイメージがある一方で、信長や秀吉に処刑される可能性が生じると逃げ出して、家族や一族の命をなげうってまで自らの保身に走ってしまうという臆病な一面が垣間見られます。</p>
<p>若い頃や信長に認められた頃は追い風からイケイケな雰囲気があったのかもしれませんが、ある程度の支配権や裁量権が与えられるようになると選択を間違えてしまい、窮地に立たされることが多くあったようです。</p>
<p>その点では上に立つ立場の人物としての器ではなかったのかもしれません。</p>
]]></content:encoded>
					
					<wfw:commentRss>https://rekishigaiden.com/arakimurashige/feed/</wfw:commentRss>
			<slash:comments>0</slash:comments>
		
		
			</item>
		<item>
		<title>細川ガラシャってどんな人？悲劇のヒロインとして伝えられる明智光秀の娘</title>
		<link>https://rekishigaiden.com/hosokawagarasha/</link>
					<comments>https://rekishigaiden.com/hosokawagarasha/#respond</comments>
		
		<dc:creator><![CDATA[まさむね]]></dc:creator>
		<pubDate>Tue, 30 Jul 2019 02:37:15 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[戦国時代]]></category>
		<category><![CDATA[安土桃山時代]]></category>
		<guid isPermaLink="false">https://rekishigaiden.com/?p=915</guid>

					<description><![CDATA[日本史の中には意外と「悲劇のヒロイン」は少ないです。 それは、日本で女性が大切にされてきたからではなく、近代以前は軽視されていたために、悲劇が起きても記録に残りにくいからです。 そんな中で際立って悲劇的に伝えられている女]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>日本史の中には意外と「悲劇のヒロイン」は少ないです。</p>
<p>それは、日本で女性が大切にされてきたからではなく、近代以前は軽視されていたために、悲劇が起きても記録に残りにくいからです。</p>
<p>そんな中で際立って悲劇的に伝えられている女性が、細川ガラシャです。</p>
<h2>細川ガラシャのプロフィール</h2>
<p>細川ガラシャは1563年生まれ。</p>
<p>その3年前は桶狭間の戦いで<a href="https://rekishigaiden.com/odanobunaga/">織田信長</a>が鮮烈デビューを果たし、その2年後には<a href="https://rekishigaiden.com/ashikagayoshiteru/">足利義輝</a>が暗殺されるという戦国時代真っ只中でした。</p>
<p>ガラシャというのは後にキリスト教徒になったときの洗礼名で、本名は明智玉子（玉、珠とも）。</p>
<p><span class="marker">父親は、本能寺の変を起こしたあの明智光秀です。</span></p>
<a href="https://rekishigaiden.com/akechimitsuhide/" class="blog-card"><div class="blog-card-hl-box"><i class="jic jin-ifont-post"></i><span class="blog-card-hl"></span></div><div class="blog-card-box"><div class="blog-card-thumbnail"><img src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/akechimitsuhide-320x180.jpg" class="blog-card-thumb-image wp-post-image" alt="明智光秀" loading="lazy" width ="162" height ="91" /></div><div class="blog-card-content"><span class="blog-card-title">明智光秀ってどんな人？わかりやすく簡単にまとめてみました</span><span class="blog-card-excerpt">明智光秀と言えば、歴史もののテレビドラマや映画でもよく登場しています。

「敵は本能寺にあり」、「三日天下」という言葉がすぐに頭に浮...</span></div></div></a>
<h3>15歳で細川忠興に嫁ぐ</h3>
<p>玉子が15歳のおり、父光秀と同じく信長の臣下であった<span class="marker">細川藤孝の息子・細川忠興に嫁ぎます。</span></p>
<p>この結婚はもちろん本人たちの意思は関係なく、信長が家臣間を婚姻関係で結ぶ政策の一環として命じたものでした。</p>
<p>結婚の翌年には長女、その翌年には長男・細川忠隆を生みました。</p>
<h3>本能寺の変で幽閉</h3>
<p>玉子19歳のときに本能寺の変が勃発。</p>
<p>首謀者の<a href="https://rekishigaiden.com/akechimitsuhide/">明智光秀</a>は山崎の戦いで<a href="https://rekishigaiden.com/toyotomihideyoshi/">羽柴秀吉</a>に破れ、逃亡した山中で殺害されました。</p>
<p>信長の家臣であった夫の忠興は、謀反人の娘である玉子を京都の山奥に幽閉します。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
ただ、この幽閉時代に次男の細川興秋が生まれているため、幽閉はポーズであったとか、あるいは美人で知られる玉子が、新たな覇者となった秀吉に奪われないために実際には守ったのだというような説もあります。
</div>
</div></div>
<p>2年後に秀吉の命により幽閉が解かれ、細川家の大阪の屋敷にうつされました。</p>
<h3>キリスト教に出会って洗礼を受ける</h3>
<p>玉子23歳のときに、後に熊本藩主となる三男・細川忠利を出生。</p>
<p>その翌年、忠興が九州支配を狙った秀吉に従って九州へ出征。</p>
<p>玉子はその隙にキリスト教会を訪れます。</p>
<p>このときのことは、イエズス会の宣教師、コスメ・デ・トーレスが記録に残しています。</p>
<p>玉子はその翌年<span class="marker">自宅で洗礼を受け、ガラシャという洗礼名を授けられました。</span></p>
<h3>人質を拒否して自害</h3>
<p>1600年、玉子37歳のとき、<a href="https://rekishigaiden.com/tokugawaieyasu/">徳川家康</a>が会津の上杉景勝を討つため出陣します。</p>
<p>忠興もその軍に従っていました。</p>
<p>その隙をついて<a href="https://rekishigaiden.com/ishidamitsunari/">石田三成</a>が大阪で挙兵。</p>
<p>大阪にいた家康についた武将たちの家族を人質にとりました。</p>
<p>その手はガラシャにも伸びます。</p>
<p>しかしガラシャは人質になることを拒否しました。</p>
<p>ガラシャをとらえるべく三成の兵が屋敷を取り囲むと、ガラシャは自害。</p>
<p>介錯をした小笠原秀清が屋敷ごと爆破し、自らも自害しました。</p>
<h2>細川ガラシャは何をした人？</h2>
<p>細川ガラシャは本来ならただの武家の奥方でしたが、その敬虔な信仰心と、壮絶な死によって歴史に名を残しています。</p>
<h3>深いキリスト教への信仰</h3>
<p>ガラシャはもともとは禅宗を信仰していたようです。</p>
<p>それがキリスト教に興味を持ったのは、夫・忠興からキリシタン大名の高山右近の話を聞かされたからだといいます。</p>
<div class="concept-box6">
<p>高山右近は、後に徳川の世になったとき、キリスト教信仰を捨てることを肯んぜず、国外追放になったほど深くキリスト教を信仰していた人でした。</p>
</div>
<p>幽閉は解かれたとはいえ、ほぼ軟禁状態だった玉子は自由には外出できませんでした。</p>
<p>忠興が留守になったのはちょうど春の彼岸の時期だったため、彼岸の墓参りを口実に屋敷を出て、こっそりとイエズス会の教会を訪れています。</p>
<p>そのとき布教していたのは、フランシスコ・ザビエルとともに日本に来ていたコスメ・デ・トーレスでした。</p>
<p>トーレスはガラシャのことを非常に聡明な女性だと書き残しています。</p>
<p>なかなか外出できないガラシャは、<span class="marker">かわりに侍女を教会に通わせ、洗礼を受けさせて、彼女たちを通じてキリスト教を学んでいきました。</span></p>
<p>しかし、ガラシャがキリスト教と出会った翌年、<a href="https://rekishigaiden.com/toyotomihideyoshi/">豊臣秀吉</a>がバテレン追放令を出し、宣教師たちは長崎に移ることになりました。</p>
<p>その直前、ガラシャは同じく<span class="marker">イエズス会のセスペデス神父により自宅で洗礼を受けています。</span></p>
<p>洗礼のことは秘していたものの、後に忠興にそのことを告白すると、忠興は信仰をやめさせようとします。</p>
<p>しかし、もともと気が強かったというガラシャは受け入れず、忠興が折れた形になり、<span class="marker">屋敷の中に密かに聖堂を作った</span>といいます。</p>
<h3>肥後細川家の礎をつくる</h3>
<p>細川忠興は九州の小倉藩の藩主でした。</p>
<p>江戸時代になり、加藤清正の三男で肥後熊本藩を継いでいた加藤忠広がお取り潰しとなったとき、忠興がその後を受け継ぐことになりましたが、忠興はその座を三男の忠利に譲って引退しています。</p>
<p><span class="marker">忠利はガラシャによって洗礼を受けたクリスチャンだった</span>ようです。</p>
<p>忠利は三男だったものの、長男忠隆は廃嫡され、次男興秋は細川家を出奔した後大阪の陣で豊臣方についたため切腹させられていました。</p>
<p>忠利は肥後細川家の祖となり、その系統は現在まで続くことになります。</p>
<p>元内閣総理大臣の細川護煕氏は肥後細川家の末裔で、いわば細川ガラシャの子孫です。</p>
<h2>細川ガラシャのエピソード・逸話</h2>
<p>細川ガラシャの悲劇的な生涯は現代でも小説やドラマの中で語られています。</p>
<p>ただ、伝えられるところによれば、一方的に運命に流された弱い女性というわけでもなかったようです。</p>
<h3>男勝りの“強い女”</h3>
<p>ガラシャは戦の時は甲冑をつけて戦っても男には負けないわよ！などと豪語するなかなか激しい性格の女性だったようです。</p>
<p>あるとき細川忠興が家臣を手討ちにすると、そばにいたガラシャの着物で血を拭き取るという、いくら戦国時代でもありえないことをしました。</p>
<p>ガラシャはその着物を洗わず、何日も着続けました。</p>
<p>結局忠興のほうが謝って、やっと着替えたそうです。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
後に忠興にキリスト教を捨てるように言われても譲らなかったのは、強い信仰心とともに、彼女のこうした強情ともいえる性格のせいだったかもしれません。
</div>
</div></div>
<h3>神聖ローマ帝国でオペラになる</h3>
<p>現在我々が戦国時代のことを知ることができるのは、イエズス会の宣教師が日本での出来事などを記録して報告していたおかげでもあります。</p>
<p>その報告の中で、ガラシャのことも伝えられていました。</p>
<p>ガラシャの死後98年後、ガラシャの物語は『丹後王国の女王グラツィア（ガラシャ）』というオペラにされ、神聖ローマ帝国時代のウィーンのハプスブルク家の宮殿で上演されました。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
数多いオペラ作品の中でヒロインになった日本人はおそらく細川ガラシャだけでしょう。
</div>
</div></div>
<h2>4行でわかる細川ガラシャのまとめ</h2>
<p>戦国の世に翻弄され、悲劇的な死を迎えた細川ガラシャのまとめです。</p>
<div class="kaisetsu-box3">
<div class="kaisetsu-box3-title">まとめ</div>
<ul>
<li>明智光秀の娘</li>
<li>15歳で細川忠興に嫁ぐ</li>
<li>キリスト教に出会って洗礼を受ける</li>
<li>関ヶ原の戦いを前にしたかけひきに巻き込まれ死去</li>
</ul>
</div>
<p>生まれたと思ったら父親が謀反を起こし、キリスト教に出会ったら禁教令が出て、自分は何も悪くないのに人質にされそうになって自ら命を絶つ。</p>
<p>運命と呼ぶにはあまりにもひどく、彼女の生涯に幸せはあったのだろうかと思ってしまいます。</p>
<p>せめてオペラの中で敬虔な殉教者と描かれることが鎮魂になればいいなと思います。</p>
]]></content:encoded>
					
					<wfw:commentRss>https://rekishigaiden.com/hosokawagarasha/feed/</wfw:commentRss>
			<slash:comments>0</slash:comments>
		
		
			</item>
		<item>
		<title>三村家親ってどんな人？初めて戦闘中以外にスナイパーに暗殺された日本人？</title>
		<link>https://rekishigaiden.com/mimuraiechika/</link>
					<comments>https://rekishigaiden.com/mimuraiechika/#respond</comments>
		
		<dc:creator><![CDATA[まさむね]]></dc:creator>
		<pubDate>Wed, 24 Jul 2019 10:41:08 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[戦国時代]]></category>
		<guid isPermaLink="false">https://rekishigaiden.com/?p=871</guid>

					<description><![CDATA[三村家親という戦国武将をご存じでしょうか。 戦国時代には全国各地に多くの戦国大名が誕生しましたが名前が多く知られているのはその一部分にすぎません。 有力な戦国大名が勢力を拡大してゆく中で小さくもたくましく残り、ある一定の]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>三村家親という戦国武将をご存じでしょうか。</p>
<p>戦国時代には全国各地に多くの戦国大名が誕生しましたが名前が多く知られているのはその一部分にすぎません。</p>
<p>有力な戦国大名が勢力を拡大してゆく中で小さくもたくましく残り、ある一定の支配力を持った勢力もたくさん存在していました。</p>
<p>このような小さな勢力の大名は大きな勢力の前に対して、生き残るためには戦って勝利するか、従順に従うか判断をしなくてはいけませんでした。</p>
<p>三村家親は備中国（現岡山県西部）に勢力を持った戦国大名の1人でした。</p>
<p>決して大きな勢力とは言えませんでしたが、三村氏がどのような生き方をしたのか詳しく見てゆきたいと思います。</p>
<h2>三村家親のプロフィール</h2>
<div class="simple-box1">
<ul>
<li>本名：三村家親（みむらいえちか）</li>
<li>通称・別名：修理亮、紀伊守</li>
<li>享年：不明（？～1566年）</li>
<li>備中国を中心に勢力を展開した戦国武将。隣国の浦上氏と対抗する中で<a href="https://rekishigaiden.com/ukitanaoie/">宇喜多直家</a>に依頼された刺客によって鉄砲の銃撃で命を落とす。</li>
</ul>
</div>
<h2>三村家親は何をした人？</h2>
<p>三村家親は備中国の大部分に勢力を持った戦国武将です。</p>
<p>出雲国の尼子氏や安芸国の毛利氏、備前国の浦上氏・宇喜多氏といった周囲の巨大勢力に囲まれる中で、所属する勢力を巧みに替えながら備中国を支配し戦国時代を過ごしました。</p>
<p>大きな勢力に囲まれた大名は舵取りが非常に難しく、選択を間違えると大名家の滅亡を意味します。</p>
<p>家親は<span class="marker">尼子氏・毛利氏と所属勢力を変化</span>させますが、家親の非業の死の後に残された者たちは家親への思いから毛利氏へ敵対する意思を示したために毛利氏と宇喜多氏に両方から攻め込まれて三村氏は滅亡してしまいました。</p>
<p>では、具体的に家親がどのような人物だったのか具体的に見てゆきたいと思います。</p>
<h2>三村家親のエピソード・逸話</h2>
<h3>小さな独立した大名として活躍する</h3>
<p>三村氏は元々備中国の成羽（なりわ）と呼ばれる地域に勢力を持つ国人領主でした。</p>
<p>小さな勢力なので周辺の大きな勢力を持つ戦国大名に従うしかなく、三村氏は<a href="https://rekishigaiden.com/amagotsunehisa/">尼子経久</a>に従って尼子氏の領国拡大に協力していました。</p>
<p>そんな尼子氏に従う間でも周辺の土豪と戦いを行い自らの勢力の拡大に努め、家親の代には<span class="marker">備中国をほぼ手中にするほどに勢力を広げました。</span></p>
<p>大きな大名の家臣として尼子氏や毛利氏に取り込まれる事なく、独立した大名として活動もしっかりと行っていたという事です。</p>
<h3>毛利氏方の豪族として認められる</h3>
<p>家親は備中国でも毛利氏勢力に隣接する地域を支配していたので、早くから尼子氏の元を離れて毛利氏に協力するようになりました。</p>
<p>備中国には大きな勢力が存在していなかったので、国の北部と南側で尼子氏方につく勢力と毛利氏方につく勢力が存在する事となり、たびたび小競り合いをしていました。</p>
<p>尼子氏の勢力が弱まると毛利氏の攻勢が強まり、家親も同様に備中国内の尼子氏側勢力の排除につとめます。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
毛利元就の息子の吉川元春は家親の活躍を評価し、備中一国は家親のおかげで毛利のものとなったのも同然であるという言葉を残しました。
</div>
</div></div>
<h3>宇喜多直家に依頼されたスナイパーで暗殺される</h3>
<p>家親は尼子氏方の勢力と戦う一方で東側に勢力を持った浦上氏とも戦いを行っていました。</p>
<p>家親は浦上氏を攻略するために軍を率いていましたが、重臣らを集めて会議をしている最中に、敵の<a href="https://rekishigaiden.com/ukitanaoie/">宇喜多直家</a>に依頼された<span class="marker">鉄砲の使い手によって銃撃され命を落としてしまいました。</span></p>
<p>戦国時代に行われた暗殺の手段としては大変珍しいケースです。</p>
<p>あの<a href="https://rekishigaiden.com/odanobunaga/">織田信長</a>も紀伊国の根来衆を攻めた時には鉄砲によって銃撃されて重傷を負ったと言われています。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
現在で言えばスナイパーになりますが、公式に残っている記録として戦闘時ではない時にスナイパーの銃撃によって命を落とした初めての人間という事になるのかもしれません。
</div>
</div></div>
<h3>備中兵乱による三村氏の反抗</h3>
<p>家親の死後から8年後、三村家親の息子である元親（もとちか）は毛利氏の勢力下で宇喜多氏と戦っていましたが、突然毛利氏が仇敵であった宇喜多氏と手を結んだ事に対して憤慨し毛利氏から離れる事にしました。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
毛利氏は大事な同盟相手でしたが、親である家親を殺した宇喜多直家と同盟を結んでしまった事が、三村一族にとっては認められない事だったのではないでしょうか。
</div>
</div></div>
<p>備中国の大部分は三村氏の支配下となっていましたが、巨大な毛利氏の軍勢に対して多勢に無勢であり一気に攻略されてしまい三村一族は全滅してしまいました。</p>
<p>この反乱は<span class="marker">「備中兵乱」</span>と呼ばれています。</p>
<h2>4行でわかる三村家親のまとめ</h2>
<div class="kaisetsu-box3">
<div class="kaisetsu-box3-title">まとめ</div>
<ul>
<li>戦国時代に尼子氏・毛利氏の合間にあり大きな勢力下を渡り歩く</li>
<li>小さいながらも独立した大名として勢力を持ち備中国の大部分を支配した</li>
<li>宇喜多直家の放った刺客により、鉄砲の銃撃で暗殺される</li>
<li>家親の死後に毛利氏に反抗したため、毛利氏に攻め滅ぼされる</li>
</ul>
</div>
<p>三村氏は戦国時代に消えてしまった一つの小さな戦国大名です。</p>
<p>あまりその名前が知られていないのも、三村氏の勢力が小さかった事と滅亡してしまった大名だからという理由があります。</p>
<p>そんな小さな勢力ですが、三村家親は自分の周囲に巨大な勢力が存在しながらも、独自に勢力拡大を行い備中一国の大部分を支配下に置くことができました。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
これは後ろ盾となった毛利氏の影響もあるかもしれませんが、家親の実力や行動力があってこその結果ではないでしょうか。
</div>
</div></div>
<p>毛利氏側の勢力下に入り背後を攻撃される心配がなくなると、東側に勢力を展開していた浦上氏との戦いに専念できる事が可能になりました。</p>
<p>しかし、家親は不運にも敵の<a href="https://rekishigaiden.com/ukitanaoie/">宇喜多直家</a>の刺客によって当時としては珍しい鉄砲による銃撃で命を落としてしまいました。</p>
<p>また、家親を失った三村家に更なる追い打ちをかけたのは、毛利氏が仇敵であった宇喜多氏と手を結んでしまったという事でした。</p>
<p>三村氏にとってはとうてい認める事ができず、毛利氏から離れるという立場を取ったため、毛利氏、宇喜多氏双方から攻撃されて三村氏は滅亡してしまいました。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
自分の家や家臣達を守るために、上手く世渡りをした戦国大名が多くいる中で、三村氏は必ずしも生き残るというメリットだけを選ばず、宇喜多氏には敵対するという「義」を貫き通して講和するくらいなら戦うという道を選んだのではないでしょうか。
</div>
</div></div>
<p>戦国時代には三村氏のような不利な選択肢を選んだ勢力も少なくはありませんでした。</p>
<p>目先の安泰や利益だけを考えず不利な道を選び信念を貫きとおす事こそ、後の武士道精神につながる部分が垣間見えるような気がします。</p>
]]></content:encoded>
					
					<wfw:commentRss>https://rekishigaiden.com/mimuraiechika/feed/</wfw:commentRss>
			<slash:comments>0</slash:comments>
		
		
			</item>
	</channel>
</rss>
