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	<title>平安時代で有名な人物一覧【女性・貴族など】｜歴史上の人物外伝</title>
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		<title>源頼朝ってどんな人？鎌倉幕府は1192年じゃない？簡単にまとめてみました</title>
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		<dc:creator><![CDATA[まさむね]]></dc:creator>
		<pubDate>Sat, 19 Mar 2022 06:47:41 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[平安時代]]></category>
		<category><![CDATA[鎌倉時代]]></category>
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					<description><![CDATA[源頼朝といえば、鎌倉幕府。 「いい国作ろう鎌倉幕府」という語呂合わせ、一度は耳にしたことがあるはずです。 しかし、近年鎌倉幕府の始まりに対しての議論が白熱しています。 その論点となるのが、鎌倉幕府の立役者、源頼朝の存在な]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>源頼朝といえば、鎌倉幕府。</p>
<p>「いい国作ろう鎌倉幕府」という語呂合わせ、一度は耳にしたことがあるはずです。</p>
<p>しかし、近年鎌倉幕府の始まりに対しての議論が白熱しています。</p>
<p>その論点となるのが、鎌倉幕府の立役者、源頼朝の存在なのです。</p>
<p>「そもそも鎌倉幕府って何のこと？何を基準に始まりとしているの？」という人も多いはず。</p>
<p>果たして彼は何を成し遂げた人なのでしょうか。<br />
また、エピソードや逸話は？</p>
<p>簡単にまとめてみました！</p>
<h2>源頼朝のプロフィール</h2>
<p>源頼朝（みなもとのよりとも）1147-1199。</p>
<p>平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将、政治家。</p>
<p>鎌倉時代の初代征夷大将軍として広く知られています。</p>
<h2>源頼朝は何をした人？</h2>
<h3>平治の乱からの伊豆への流刑</h3>
<p>1160年、平治の乱での敗北により賊軍となった頼朝は、近江国で捕まり京の六波羅へと贈られます。</p>
<p>当然死刑かと思われましたが、<a href="https://rekishigaiden.com/tairanokiyomori/">平清盛</a>の継母である池禅尼の嘆願などもあり死刑はどうにか免れ、<span class="marker">伊豆国への流刑処分</span>に収まりました。</p>
<p>なお、父の義朝・次兄の朝長・長兄の義平はみなここまでに命を落としてしまっているため、殺されなかったのはかなり運がよかったと言えます。</p>
<p>伊豆へ流された頼朝の生活について残された史料はほとんど残されてはいませんが、読経を欠かさず行い、武芸の鍛錬も日々参加していたようです。</p>
<p>また、この期間中に北条時政の長女である政子と婚姻関係を結び、子供まで作るなど、類家の身でありながらも人生を謳歌していたのではないかとも感じます。</p>
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<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
しかし、流された当時の頼朝の年齢はわずか13歳。</p>
<p>父と兄を失い孤独な日々を過ごしたと考えると、死刑にも及ぶほどの苦しみを味わったのは間違いないでしょうね。
</p></div>
</div></div>
<h3>治承・寿永の乱</h3>
<p>1180年、後白河法皇の皇子である以仁王が平家追討を命ずる令旨を諸国の源氏に発し、頼朝のもとにも知らせが届きました。</p>
<p>しかし、以仁王らが先に挙兵する中で、頼朝はしばらく事態の静観を決め込みます。</p>
<p>その後、平家が源氏追討を企てているということを知り、自身の身に危険が及ぶと考えてようやく挙兵を決意しました。</p>
<p>坂東の各豪族に協力を呼びかけ、まずは伊豆を制圧した頼朝でしたが、石橋山の戦いで平家方の軍勢に敗北を喫し、山中へ逃げ込むことになります。</p>
<p>数日間の逃亡を経て案房国へと脱出し、他の勢力に加勢を要請すると、その後も多くの軍勢を味方につけ、遂に鎌倉へと入ります。</p>
<p>以降鎌倉を拠点に平家との対立と周囲の豪族の制圧を進め、徐々に頼朝の権威は高まっていきました。</p>
<p>1181年、<a href="https://rekishigaiden.com/tairanokiyomori/">平清盛</a>が病死すると平家の反乱も次第になりを収めていき、<span class="marker">1183年には坂東で頼朝に敵対する勢力はいなくなりました。</span></p>
<p>内政にも力を入れ、味方となった勢力たちに不満が出ないように立ち振るまい、豪族たちからの支持を集めました。</p>
<h3>鎌倉幕府を開く</h3>
<p>源頼朝と言えば真っ先に出てくるのが、<span class="marker">鎌倉幕府</span>ですよね。</p>
<p>この鎌倉幕府ですが、いつからを幕府の始まりとするのか、たびたび議論がなされていることでも有名です。</p>
<p>多くの大人が覚えてきたのは、「いい国（1192）作ろう鎌倉幕府」だと思います。</p>
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<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
自分も、歴史の問題はこれだけは自信をもって答えられる！というくらいには何度も繰り返して覚えました(笑)
</div>
</div></div>
<p>1192年というのは、頼朝が征夷大将軍に任じられた年。</p>
<p>つまり、国の実質最高権力者になった年を幕府の始まりとする見方です。</p>
<p>対して、今の説の主力は「いい箱（1185）作ろう鎌倉幕府」で1185年となっています。</p>
<p>1185年に行われたのは、諸国への守護・地頭の設置です。</p>
<p>これはつまり、頼朝に諸国に対する軍事・警察・土地支配権が与えられたことを意味しています。</p>
<p>要するに、論点となっているのは頼朝が国を統治できるようになったのはどこからか、というところです。</p>
<p>ほかにも1180年や1184年、1190年など様々な意見が存在していますが、統一された見解は未だ出されていません。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
歴史というのはこのようにまだまだ曖昧なところが多い学問です。</p>
<p>また数年後には、全く別の見解がなされているかもしれませんね。
</p></div>
</div></div>
<h2>源頼朝のエピソード・逸話</h2>
<h3>顔が大きいイケメンだった？</h3>
<p>頼朝の容貌に関して、いくつかの文献に記載が残されています。</p>
<p>『源平盛衰記』では、「顔が大きく容貌は美しい」と書かれています。</p>
<p>また、『平家物語』の中では、頼朝と対面した中原泰定の言葉で「顔大きに、背低きかりけり。容貌優美にして言語文明なり」とあります。</p>
<p>このように、当時の感覚からしても源頼朝はイケメンとして見られていたことが窺えます。</p>
<p>ちなみに、身長に関しては甲冑からの推測で165cmはあったのではないかとされており、これは当時の平均よりも高めです。</p>
<p>つまり、<span class="marker">身長が高く、イケメンで、権力も持っていた</span>というわけです。</p>
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<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
才色兼備という言葉でも表せないほど、並みの人物ではなかったことが分かりますね。
</div>
</div></div>
<h3>独立心の強かった武士団を1つにまとめ上げた</h3>
<p>頼朝の配下についた東国武士団は、当初独立心の塊で、同族以外での協力など一切頭にありませんでした。</p>
<p>自分たちだけで敵を倒して名を上げようとするものばかりだったのです。</p>
<p>しかし、もちろんそんなことでは配下として役に立つはずがありません。</p>
<p>頼朝は癖の強い武士たちを1からまとめ上げ、大きな組織を作り上げました。</p>
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<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
優れた統率力と信頼関係を持っていたからこそ成し遂げられたことなのでしょう。
</div>
</div></div>
<h3>息子に対しては親バカだった</h3>
<p>息子の頼家が12歳の時。</p>
<p>頼家が鹿を仕留めたことを大変喜んだ頼朝は、妻の北条政子にわざわざ報告の使いを送りそのことを伝えました。</p>
<p>すると、政子からは「武士の子なら当たり前」と冷静な一言をもらったんだとか。</p>
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<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
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<div class="balloon-content">
現代の家族でもありそうな話で、頼朝も一人の人間だということが感じられますね。
</div>
</div></div>
<h2>3行でわかる源頼朝のまとめ</h2>
<div class="kaisetsu-box3">
<div class="kaisetsu-box3-title">まとめ</div>
<ul>
<li>平治の乱での敗北後、伊豆へ流刑に処された</li>
<li>治承・寿永の乱の後、協力者を集めてから平氏を追い詰め、影響力を高めていった</li>
<li>鎌倉幕府を開いたことで有名だが、その始まりはまだ確定されていない</li>
</ul>
</div>
<p>伊豆に流され孤独の身となってからも、頼朝は打倒平氏を掲げその機会をずっと窺っていました。</p>
<p>敗北と逃走を繰り返しながらも、持ち前のカリスマ性で力を蓄え、遂には自らが国を動かせるまでに上り詰めたのです。</p>
<p>豪族からも慕われ、その人間性はトップに立つに相応しいものだったと言えます。</p>
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<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
鎌倉幕府がどこから始まったのかなんて、彼が成し遂げたことを考えれば些細な話なのかもしれないですね。
</div>
</div></div>
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			</item>
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		<title>【源義家がしたことまとめ】頼朝との関係や納豆誕生秘話？など</title>
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		<dc:creator><![CDATA[まさむね]]></dc:creator>
		<pubDate>Thu, 26 Sep 2019 06:20:38 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[平安時代]]></category>
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					<description><![CDATA[源義家（みなもとのよしいえ）といえば、八幡太郎義家の名でも知られ、武勇に優れた武士として有名ですが、どんな人物だったのでしょうか。 “泣く子も黙る猛将”として多くの伝説を残し、鎌倉幕府が始まる基盤をつくったとされています]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>源義家（みなもとのよしいえ）といえば、八幡太郎義家の名でも知られ、武勇に優れた武士として有名ですが、どんな人物だったのでしょうか。</p>
<p>“泣く子も黙る猛将”として多くの伝説を残し、鎌倉幕府が始まる基盤をつくったとされていますが実際はどうだったのでしょう。</p>
<p>この記事では<span class="marker">源義家についてどんな人物だったのか</span>、簡単にわかりやすく紹介してみたいと思います。</p>
<h2>源義家のプロフィール</h2>
<div class="simple-box1">
<ul>
<li>源義家（みなもとのよしいえ）</li>
<li>幼名：不動丸・源太丸</li>
<li>別名：八幡太郎（はちまんたろう）</li>
<li>父：源頼義（河内源氏初代棟梁）</li>
<li>母：平直方の娘</li>
<li>享年68（1039年～1106年7月15日）</li>
</ul>
</div>
<h2>源義家は何した人？</h2>
<p>平安時代後期、源義家は東北で起こった<span class="marker">前九年の役・後三年の役を鎮圧</span>して、東国に源氏の基盤を築き、武家の棟梁としての地位を確立しました。</p>
<h3>源義家の生い立ち</h3>
<p>1039年、源義家は源頼義（みなもとのよりよし）の長男として生まれました。</p>
<p>出生地については、河内源氏の本拠地である河内国石川郡壺井、鎌倉、相模国足下郡柳下郷、京都など、諸説があります。</p>
<p>その後、7歳のときに石清水八幡宮で元服したことから八幡太郎と呼ばれました。</p>
<h3>前九年の役</h3>
<p>この頃、陸奥国奥六郡（岩手県）では安倍頼時（あべのよりとき）が勢力を伸ばしていました。</p>
<p>安倍氏は俘囚（朝廷に服属した人）の主導者となって、その周辺を治めていた豪族です。</p>
<p>やがて頼時が朝廷の命令に従わないようになったため、朝廷は1051年に頼義を陸奥守として赴任させ、頼義・義家父子と安倍氏との間で戦闘が始まりました。</p>
<p>頼時は鎮守府（蝦夷鎮圧のために置かれた軍政官庁）が置かれていた胆沢城（岩手県奥州市）に赴いた頼義を攻め、戦いを優位に進めていましたが、1057年に奇襲を受けて戦死しました。</p>
<p>これを好機とみた頼義は一気に安倍氏を滅ぼそうと決戦を挑みましたが、頼時の子・安倍貞任（あべのさだとう）らに反撃され、大敗してしまいます（黄海の戦い）。</p>
<p>その後、安倍氏の専横が続きましたが、1062年に頼義は出羽国山北（秋田県）の豪族・清原光頼（きよはらのみつより）に参戦を依頼しました。</p>
<p>これを聞き入れた光頼が弟・清原武則（きよはらのたけのり）を総大将として派遣すると、形勢は一気に逆転します。</p>
<p>清原氏が参戦してから1ヶ月後、拠点である厨川柵（岩手県盛岡市）が陥落して安倍氏は滅亡し、<span class="marker">前九年の役は終結</span>しました。</p>
<h3>後三年の役</h3>
<p>義家は1063年に出羽守、1070年には下野守となり、治安の悪かった京都で白河天皇の護衛も任されました。</p>
<p>そして、1083年に<span class="marker">陸奥守となりました。</span></p>
<p>前九年の役で安倍氏が滅んだ後、清原氏は奥州の覇者となっていましたが、清原武貞（きよはらのたけさだ）の死後、子・真衡（さねひら）・家衡（いえひら）・清衡（きよひら）の間に内紛が起こり、<span class="marker">後三年の役</span>に発展します。</p>
<p>真衡の養子・成衡（なりひら／しげひら）は頼義の娘を妻に迎えましたが、その婚礼の際に真衡が叔父・吉彦秀武（きみこのひでたけ）に無礼を働き、それに秀武が激怒すると、真衡は秀武討伐の軍を起こしました。</p>
<p>一方の秀武は、真衡と不仲であった家衡と清衡に蜂起を促し、二人がこれに呼応したため、真衡は家衡・清衡と対立します。</p>
<div class="m50"></div>
<p>その後、成衡の妻の兄である義家が真衡側に加勢すると、清衡・家衡は大敗を喫して降伏しました。</p>
<p>しかし、その直後に真衡が急死してしまいます。</p>
<p>真衡の死後、義家は家衡と清衡に真衡の所領を公平に分け与えましたが、これに不満を持った家衡は、1086年に清衡の館を攻撃しました。</p>
<p>清衡に助けを求められた義家は、沼柵（秋田県横手市）に籠もった家衡を攻撃しましたが季節が冬で、充分な用意がなかったため敗れてしまいます。</p>
<p>1087年、義家・清衡軍は金沢柵（秋田県横手市）に移った家衡軍を再び攻撃し、苦戦しましたが、兵糧攻めによって家衡軍に勝利しました。</p>
<h3>戦後処理</h3>
<p>朝廷は後三年の役を義家の私闘とみなし、恩賞を与えることを拒否したうえ、1088年には陸奥守を解任しました。</p>
<p>義家は随従した武士に私財から恩賞を与えましたが、その多くは関東から出征してきた者でした。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
そのため、関東の武士は後代まで源氏に従ったので、<a href="https://rekishigaiden.com/minamotonoyoritomo/">源頼朝（みなもとのよりとも）</a>が鎌倉幕府を創建することができたともいわれています。
</div>
</div></div>
<h3>源義家の最期</h3>
<p>後三年の役から10年後の1098年、義家は正四位下に昇進し、<span class="marker">武士として初めて院昇殿を許されました。</span></p>
<p>しかし2年後、源義親（義家の2男）が九州で告発され、義家は朝廷から義親を召還するように命じられました。</p>
<p>さらに、1106年には源義国（義家の4男）が、叔父・源義光（義家の弟）と争ったため（常陸合戦）、義国も召還するように命じられます。</p>
<p>その後、義国と争っていた義光にも捕縛命令が出されるなど苦しい立場の中、義家は7月15日に68歳で亡くなりました。</p>
<p><!--Ads1--></p>
<h2>源義家のエピソード・逸話</h2>
<h3>源義家と安倍貞任</h3>
<p>前九年の役で安倍氏の柵（城砦）を次々と打ち破った義家は、衣川柵（岩手県奥州市）も落としました。</p>
<p>その時、敗走する貞任に追いついた義家は、言いたいことがあるから待つように声をかけます。</p>
<p>貞任が振り向くと、「衣のたてはほころびにけり」と、衣川の館と衣類の縦糸をかけた歌の下の句を詠みました。</p>
<p>すると、貞任は馬を止めてにっこり笑い、「年を経し糸の乱れの苦しさに」と上の句を詠み返しました。</p>
<p><span class="marker">貞任の歌の上手さに感動した義家は、追撃することを止めて帰った</span>といわれています。</p>
<h3>雁行の乱れ</h3>
<p>後三年の役で沼柵の戦いに敗れた義家は、家衡を討つために金沢柵に向かいました。</p>
<p>その途中、義家が馬を止めて空を見上げると、雁が列をなして飛んでいましたが、突然その列が乱れて雁が四方に飛び去ります。</p>
<p>これを見た義家は大江匡房（おおえのまさふさ）から教わった孫子の兵法を思い出し、清原軍の待ち伏せがあることを察知しました。</p>
<p>そして、雁が乱れた辺りに伏兵がいるので、探し出すように命じ、待ち伏せしていた清原軍30騎余はすべて討ち取られました。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
匡房から兵法を教わっていなければ、ここで敗れていた義家は「江師（ごうのそつ／大江匡房）の一言なからましかばあぶなからまし」と語ったといわれています。
</div>
</div></div>
<h3>源義家と納豆</h3>
<p><span class="marker">納豆は健康に良いとして親しまれている発酵食品ですが、その誕生に義家が関係している</span>という説があります。</p>
<p>当時の戦闘には馬が欠かせませんでしたが、酷使されるために消耗が激しかったので、大豆や米などの栄養価の高い飼料が与えられていました。</p>
<p>通常、馬糧に利用する大豆は、煮豆したものを乾燥させ、それを俵に詰めて運んでいました。</p>
<p>しかし、緊急事態が起きた場合、煮豆を乾燥する時間がとれなかったので、豆が煮上がると煮汁を捨てて、俵にそのまま詰めることもありました。</p>
<p>俵の藁に付着していた納豆菌は、その熱によって覚醒し、煮豆が適度に冷えると猛烈に繁殖し始めるため、1日～2日で煮豆は糸引き納豆へと変化します。</p>
<p>そのため、兵士たちは糸引き納豆に変化した煮豆を腐っているものと思い、捨てていましたが、義家が捨てられた糸引き納豆を拾い上げて食べてみると、意外と美味しく、充分に食べられる食料であることに気づきました。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
このときから、義家は糸引き納豆を兵糧に採用したとされています。
</div>
</div></div>
<h2>源義家のまとめ</h2>
<div class="kaisetsu-box3">
<div class="kaisetsu-box3-title">まとめ</div>
<ul>
<li>1039年：源頼義の長男として生まれる</li>
<li>1051年：前九年の役が起こり、父・頼義とともに安倍氏と戦う</li>
<li>1062年：清原氏の援助を得て安倍氏を滅ぼし、前九年の役を平定する</li>
<li>1083年：陸奥守となり、清原氏の相続争いに介入する</li>
<li>1087年：清原清衡と清原家衡を討ち、後三年の役を平定する</li>
<li>1098年：武士として初めて院昇殿を許される</li>
<li>1106年：68歳で亡くなる</li>
</ul>
</div>
<p>摂関政治から院政へと移行する転換期に、武士は単なる家来から独立した新興勢力として力を持ち始め、義家はその象徴とみなされました。</p>
<p>そのため、室町幕府を開いた<a href="https://rekishigaiden.com/ashikagatakauji/">足利尊氏</a>は、義家が書き残したとする「自分は七代の子孫に生まれ変わって天下を取る」という置文伝説で天下人としての地位を正当化し、江戸幕府を開いた<a href="https://rekishigaiden.com/tokugawaieyasu/">徳川家康</a>は、義家の「家」の字を取って家康と名乗ったとされるなど、義家は歴代の清和源氏出身の征夷大将軍の模範または理想の武将として尊重されています。</p>
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			</item>
		<item>
		<title>嵯峨天皇ってどんな人？空海との関係や子子子エピソードなど</title>
		<link>https://rekishigaiden.com/sagatenno/</link>
					<comments>https://rekishigaiden.com/sagatenno/#comments</comments>
		
		<dc:creator><![CDATA[まさむね]]></dc:creator>
		<pubDate>Thu, 19 Sep 2019 03:28:53 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[平安時代]]></category>
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					<description><![CDATA[嵯峨天皇（さがてんのう）といえば、能書家で空海・橘逸勢と並ぶ三筆の一人として有名ですが、どんな人物だったのでしょうか。 あまり注目されることがなく、地味な天皇とされていますが、実際はどうだったのでしょう。 この記事では嵯]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>嵯峨天皇（さがてんのう）といえば、能書家で<a href="https://rekishigaiden.com/kukai/">空海</a>・橘逸勢と並ぶ三筆の一人として有名ですが、どんな人物だったのでしょうか。</p>
<p>あまり注目されることがなく、地味な天皇とされていますが、実際はどうだったのでしょう。</p>
<p>この記事では<span class="marker">嵯峨天皇についてどんな人物だったのか</span>、簡単にわかりやすく紹介してみたいと思います。</p>
<h2>嵯峨天皇のプロフィール</h2>
<div class="simple-box1">
<ul>
<li>嵯峨天皇（さがてんのう）</li>
<li>諱：神野（賀美能／かみの）</li>
<li>父：桓武天皇（第50代天皇）</li>
<li>母：藤原乙牟漏（藤原良継の娘）</li>
<li>享年57（786年9月7日～842年7月15日）</li>
<li>第52代天皇（在位：809年4月1日～823年4月16日）</li>
</ul>
</div>
<h2>嵯峨天皇は何した人？</h2>
<p>平安時代初期、嵯峨天皇は『弘仁格式』を編纂させ、蔵人所や検非違使などを設けて律令制の補強を行いました。</p>
<h3>嵯峨天皇の生い立ち</h3>
<p>786年、嵯峨天皇は<span class="marker">桓武天皇の第2皇子として生まれました。</span></p>
<a href="https://rekishigaiden.com/kanmutenno/" class="blog-card"><div class="blog-card-hl-box"><i class="jic jin-ifont-post"></i><span class="blog-card-hl"></span></div><div class="blog-card-box"><div class="blog-card-thumbnail"><img src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/09/kanmutenno-320x180.jpg" class="blog-card-thumb-image wp-post-image" alt="桓武天皇" loading="lazy" width ="162" height ="91" /></div><div class="blog-card-content"><span class="blog-card-title">【桓武天皇がやったことまとめ】政策や遷都などを簡単に</span><span class="blog-card-excerpt">桓武天皇（かんむてんのう）といえば、長岡京と平安京に遷都したことで有名ですが、どんな人物だったのでしょうか。

平安時代の幕を開いた...</span></div></div></a>
<p>聡明で君主としての器量を持っていた嵯峨天皇は、803年に三品中務卿、806年には弾正尹となります。</p>
<p>そして806年、桓武天皇が崩御し、兄・平城天皇が即位したことに伴って皇太弟となりました。</p>
<p>その後、もともと病弱だった平城天皇の病状が悪化し、これを無実の罪で死んだ叔父・早良親王や異母弟・伊予親王の祟りだと考えた平城天皇は譲位することを決意します。</p>
<h3>薬子の変</h3>
<p>809年、平城天皇は譲位し、嵯峨天皇が即位しました。</p>
<p>しかし、平城上皇に寵愛されて権勢を得ていた藤原薬子（ふじわらのくすこ）と兄・藤原仲成（ふじわらのなかなり）が、平城京への遷都と平城上皇の重祚（退位した天皇が再び即位すること）を画策します。</p>
<p>その結果、平安京の嵯峨天皇と平城京の平城上皇の間で「二所朝廷」と呼ばれる対立が起こってしまいました。</p>
<p>そして810年、平城上皇が平城京に遷都する詔勅を出したため、嵯峨天皇は仲成を左遷して薬子の官位を剥奪する詔を発します。</p>
<p>これに激怒した平城上皇は薬子とともに東国に赴いて挙兵しようとしましたが、嵯峨天皇の命令を受けた<a href="https://rekishigaiden.com/tamuramaro/">坂上田村麻呂（さかのうえのたむらまろ）</a>らが迎撃態勢をとっていたため、平城京に戻って出家し、薬子は自殺しました。</p>
<h3>嵯峨天皇の政治改革</h3>
<p><span class="marker">薬子の変を鎮圧した</span>嵯峨天皇は政治改革に取り組み、今までの律令で対処しきれない問題を解決するため、新しい官職である令外官を設置します。</p>
<p>まず、天皇の秘書官である<span class="marker">蔵人を設置</span>し、蔵人が事務を司る役所である蔵人所を設け、その長官である蔵人頭に藤原冬嗣（ふじわらのふゆつぐ）と巨勢野足（こせののたり）を任命しました。</p>
<p>そして、平安京の治安を守るために、<span class="marker">検非違使（平安京内の警備・裁判を行う）を設置</span>しました。</p>
<div class="m50"></div>
<p>さらに、法令を整備します。</p>
<p>大宝律令や養老律令が制定されてから100年以上も経っていたため、律令そのものは悪くなくても現状と合わないことがあり、補足や修正が必要になっていました。</p>
<p>そのため、「格」（律令の補足・修正）と「式」（律令の施行細則）が作成されましたが、格や式が増え過ぎてしまい、施行の邪魔になることもあったので、<span class="marker">『弘仁格式』を編纂し、今まで出されていた法令をまとめ直しました。</span></p>
<div class="m50"></div>
<p>また、平安時代初期は税を払えない農民が増加し、浮浪・逃亡に加えて、男子を女子と偽るなどの偽籍も横行して、班田収授が困難になっていました。</p>
<p>班田収授の実施が困難ということは税収の確保が困難ということであるため、直営田を経営して財政を確保しようとします。</p>
<p>そして、天皇が直営する勅旨田の他に、皇族には賜田が与えられ、九州の大宰府管内には公営田、畿内には官田が設けられました。</p>
<h3>譲位と嵯峨天皇の最期</h3>
<p>823年、嵯峨天皇は<span class="marker">淳和天皇に譲位</span>し、冷然院に移りました。</p>
<p>そして、833年には離宮・嵯峨院（現在の大覚寺）に御所を新造します。</p>
<p>嵯峨院の庭には大沢池と呼ばれる人口池が造られており、そこに咲いていた菊を嵯峨天皇が生けたことから「嵯峨御流」という華道の流派が誕生したとされています。</p>
<p>その後、842年7月15日に嵯峨天皇は57歳で崩御しました。</p>
<p><!--Ads1--></p>
<h2>嵯峨天皇のエピソード・逸話</h2>
<h3>嵯峨天皇と花見</h3>
<p>京都市東山区の清水寺は桜の名所として有名ですが、そのすぐ隣にある地主神社の境内には、八重と一重が同じ枝に咲く「地主桜」と呼ばれる珍しい桜があります。</p>
<p>平安時代初期、貴族の花見といえば桜よりも梅が一般的でした。</p>
<p>しかし、811年の春に地主神社へ行幸したとき、地主桜に心を奪われた嵯峨天皇が牛車を三度も牛車を引き返させたことで、事態は一気に急変します。</p>
<p>それ以後、嵯峨天皇は地主神社に桜の枝を宮中に献上させるように命じ、812年に初めて公式な桜の花見を行いました。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
これをきっかけに、貴族の間で桜の花見が流行して、邸宅の庭には桜の木が植えられるようになり、平安京に桜が増えていったとされています。
</div>
</div></div>
<h3>嵯峨天皇と空海</h3>
<p>嵯峨天皇は三筆の一人として有名ですが、もう一人の三筆である<a href="https://rekishigaiden.com/kukai/">空海</a>と親交がありました。</p>
<p>空海と書の巧拙を競っていた嵯峨天皇は、多数ある手本の中から特に優れた一巻を取り出し、「これは唐人の手になるものである。名は知らないが、どのように真似てみてもこのように書けるものではない。」と褒め称えると、空海が「これは私が書いたものです」と答えました。</p>
<p>しかし、嵯峨天皇が信じようとしなかったので、空海は軸を紙から外して下に隠れている所を見るように言います。</p>
<p>嵯峨天皇が空海の言う通りにすると、そこには空海の署名がありました。</p>
<p>これを見た嵯峨天皇はこれが空海の書であることを認めましたが、近頃の書と全く違っていたので、その理由を尋ねます。</p>
<p>空海は「その時にいる国によって書き換えているのです。唐は大国なのでそれに合わせてこのように強い筆勢を用いております。日本は小国なので弱い筆勢で書いています。」と答えました。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
これに感服した嵯峨天皇は、空海と書で争うことはしなくなったそうです。
</div>
</div></div>
<h3>子子子子子子子子子子子子</h3>
<p>ある時、内裏に「無悪善」と書かれた立て札が立てられました。</p>
<p>読み方が分からなかった嵯峨天皇が<a href="https://rekishigaiden.com/ononotakamura/">小野篁（おののたかむら）</a>に読み方を尋ねると、「さが（悪）なくてよからむ」、つまり「嵯峨天皇がいなければよいのに」と読みました。</p>
<p>そのため、嵯峨天皇は意味が分かるということは、これは篁が書いたからに違いないと怒りましたが、篁が「私に読めぬものはありません」と弁明したので、「子子子子子子子子子子子子」と書いたものを差し出し、「これが読めるか」と問いました。</p>
<p>すると、篁は「ねこのここねこ　ししのここじし」とすぐに読んだため、嵯峨天皇の怒りが解けたといわれています。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
「子」という漢字には、「ね」（訓読み）、「こ」（訓読み）、「し」（音読み）と、「し」が変化した「じ」の4通りの読み方があるため、このような読み方が可能となります。
</div>
</div></div>
<h2>嵯峨天皇のまとめ</h2>
<div class="kaisetsu-box3">
<div class="kaisetsu-box3-title">まとめ</div>
<ul>
<li>786年：桓武天皇の第2皇子として生まれる</li>
<li>809年：第52代天皇に即位する</li>
<li>810年：薬子の変を鎮圧する</li>
<li>蔵人所と検非違使を設置し、『弘仁格式』を編纂する</li>
<li>823年：淳和天皇に譲位する</li>
<li>842年：57歳で崩御する</li>
</ul>
</div>
<p>中央政治を強化し、華やかな平安時代の基盤を築いた嵯峨天皇は、亡くなる前に「人は天地に帰るもの。盛大な葬儀や祭祀は無用であり、墳丘も必要ない。草の茂るままにせよ。命令を違えると祟るぞ」と言い残し、薄葬を命じています。</p>
<p>あまり注目されることがない嵯峨天皇ですが、器量の大きい指導者だったといえるのではないでしょうか。</p>
]]></content:encoded>
					
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			</item>
		<item>
		<title>坂上田村麻呂ってどんな人？わかりやすく簡単にまとめてみました</title>
		<link>https://rekishigaiden.com/tamuramaro/</link>
					<comments>https://rekishigaiden.com/tamuramaro/#respond</comments>
		
		<dc:creator><![CDATA[まさむね]]></dc:creator>
		<pubDate>Mon, 16 Sep 2019 02:55:16 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[平安時代]]></category>
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					<description><![CDATA[征夷大将軍といえば幕府を開いた源頼朝や足利尊氏を思い浮かべる方が多いと思いますが、征夷大将軍とはもともと蝦夷（えみし）を討伐するために置かれた臨時の官職でした。 平安時代初期、坂上田村麻呂（さかのうえのたむらまろ）は征夷]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>征夷大将軍といえば幕府を開いた<a href="https://rekishigaiden.com/minamotonoyoritomo/">源頼朝</a>や<a href="https://rekishigaiden.com/ashikagatakauji/">足利尊氏</a>を思い浮かべる方が多いと思いますが、征夷大将軍とはもともと蝦夷（えみし）を討伐するために置かれた臨時の官職でした。</p>
<p>平安時代初期、坂上田村麻呂（さかのうえのたむらまろ）は征夷大将軍に任命されて蝦夷征討に大きな功績を残しました。</p>
<p>この記事では<span class="marker">坂上田村麻呂についてどんな人物だったのか</span>、簡単にわかりやすく紹介してみたいと思います。</p>
<h2>坂上田村麻呂のプロフィール</h2>
<div class="simple-box1">
<ul>
<li>坂上田村麻呂（さかのうえのたむらまろ）</li>
<li>父：坂上苅田麻呂</li>
<li>母：畝火浄永の娘</li>
<li>享年54（758年～811年5月23日）</li>
</ul>
</div>
<h2>坂上田村麻呂は何をした人？</h2>
<p>坂上田村麻呂は<a href="https://rekishigaiden.com/kanmutenno/">桓武天皇</a>の命令で蝦夷を討伐し、陸奥国（岩手県）に<span class="marker">胆沢城と志波城を築きました。</span></p>
<h3>坂上田村麻呂の生い立ち</h3>
<p>758年、坂上田村麻呂は坂上苅田麻呂（さかのうえのかりたまろ）の2男または3男として生まれました。</p>
<p>馳射（走る馬からの弓を射ること）を得意とする武門の一族として、朝廷内で力を増していた坂上氏の後継ぎとして期待されていた田村麻呂は、近衛府（宮中の警護を担当する組織）に出仕し、出世していきます。</p>
<h3>東北事情</h3>
<p>大化改新以降、中央集権化を目指す朝廷は支配地域の拡大に力を入れていましたが、東北地方に住み「蝦夷」と呼ばれていた人々は朝廷への服属を拒絶していました。</p>
<p>そのため、朝廷は日本海側に出羽国を新設し、さらに前進して秋田城を設置します。</p>
<p>一方、太平洋側には陸奥国府・鎮守府（軍政を司る役所）として多賀城を築き、東北地方の行政・軍事拠点としました。</p>
<p>また、城柵と呼ばれる役所を各地に設置し、関東地方などから農民（柵戸）を集めて周辺地域に住まわせ、東北地方の開拓を進めていきます。</p>
<p>その結果、朝廷による東北支配は進んでいきましたが、蝦夷たちにとってみれば、住み慣れた土地を奪われ、守り続けてきた生活を破壊される理不尽なことでした。</p>
<div class="m50"></div>
<p>そのため、<span class="marker">奈良時代末期になると蝦夷による大反乱が起こります。</span></p>
<p>780年、城柵の一つである伊治城で朝廷に服属していた蝦夷の豪族・伊治呰麻呂（これはりのあざまろ）が反乱を起こし、都から派遣されていた役人を殺害しました。</p>
<p>これを機に、各地の蝦夷たちの不満が爆発し、多賀城も襲撃されて炎上してしまいます。</p>
<h3>蝦夷征討</h3>
<p>鎮守府がある多賀城を襲撃するということは律令体制に対する反逆であり、崩壊の危機に直面していた律令体制を再建することに心血を注いでいた<a href="https://rekishigaiden.com/kanmutenno/">桓武天皇</a>は、蝦夷征討を開始します。</p>
<p>789年、桓武天皇は紀古佐美（きのこさみ）を征東大使とする5万の軍勢を胆沢に送りましたが、蝦夷の族長・アテルイ（阿弖流為）に打ち破られてしまいました。</p>
<p>無残な敗北に激怒した<span class="marker">桓武天皇は田村麻呂を征東副使に任命</span>します。</p>
<p>794年、大伴弟麻呂（おおとものおとまろ）を征夷大使、田村麻呂を副使とする10万の軍勢が蝦夷のもとに送り出され、田村麻呂は457人を討ち取り、75ヶ所の村を焼き払うなど大活躍しましたが、最大の敵であるアテルイを倒すことはできませんでした。</p>
<h3>征夷大将軍として</h3>
<p>この功績により、田村麻呂は796年に陸奥出羽按察使（東北地方の行政監督官）兼陸奥守に任命され、さらに鎮守将軍（鎮守府の長官）も兼任することになります。</p>
<p>そして797年、<span class="marker">蝦夷討伐のために設けられた令外官（律令の規定にない新設の官職）である征夷大将軍に任じられ</span>、801年に4万の軍勢を率いて陸奥へ出征しました。</p>
<p>東北地方の行政を指揮する官職を全て合わせることになった田村麻呂は、各地に多くの寺を建立し、仏教の教えによって蝦夷を同化しようとします。</p>
<p>さらに、最先端の農業技術を教えるなど、武力以外の方法で蝦夷を懐柔しようとしました。</p>
<p>その結果、今までアテルイに協力していた蝦夷の族長たちが戦線を離脱するようになります。</p>
<h3>アテルイの降伏</h3>
<p>802年、田村麻呂はアテルイの本拠地に、縦横680ｍ、役人と兵士約2000人が常駐する巨大な<span class="marker">胆沢城を築きました。</span></p>
<p>圧倒的な力の差を見せつけられたアテルイはモレ（磐具公母礼）とともに胆沢城に現れて降伏を申し出てきたため、田村麻呂は2人を伴って平安京に凱旋します。</p>
<p>このとき、アテルイの人望と気概に触れた田村麻呂は2人の助命を進言しましたが、公家たちに猛反対され、アテルイとモレは処刑されました。</p>
<p>その後803年、<a href="https://rekishigaiden.com/kanmutenno/">桓武天皇</a>の命令で東北に赴き、胆沢城の北方に志波城を築いたことで、北上川北部にまで支配を及ぼすことが可能となりました。</p>
<h3>徳政相論</h3>
<p>804年、引き続き蝦夷征討を計画した<a href="https://rekishigaiden.com/kanmutenno/">桓武天皇</a>は、田村麻呂を再び征夷大将軍に任命しました。</p>
<p>そして805年、田村麻呂は坂上氏として初の参議に任じられます。</p>
<p>しかし、藤原緒嗣（ふじわらのおつぐ）が、平安京造営と蝦夷征討が国家財政を圧迫し、民衆に大きな負担をかけていると建言し、桓武天皇がこれを受け入れたため、蝦夷征討は中止されました<span class="marker">（徳政相論）</span>。</p>
<h3>薬子の変と坂上田村麻呂の最期</h3>
<p>806年、<a href="https://rekishigaiden.com/kanmutenno/">桓武天皇</a>が崩御した後、平城天皇が即位すると、田村麻呂は中納言と中衛大将に任じられるなど、側近として重用されました。</p>
<p>そして807年、中衛府が右近衛府と改称されたことにあわせて中衛大将から右近衛大将となり、809年には父・苅田麻呂を超える正三位に昇進します。</p>
<p>しかし、病弱だった平城天皇は弟・<a href="https://rekishigaiden.com/sagatenno/">嵯峨天皇</a>に譲位して平城京へ移りましたが、体調が回復すると寵愛していた藤原薬子（ふじわらのくすこ）と兄・藤原仲成（ふじわらのなかなり）らとともに重祚（退位した天皇が再び即位すること）を企てます。</p>
<p>その結果、朝廷は嵯峨天皇と平城上皇による二所朝廷と呼ばれる状態に陥ってしまいました。</p>
<div class="m50"></div>
<p>その中で、平城上皇が平安京から平城京への遷都の詔勅を出したため、嵯峨天皇は田村麻呂を造宮使として平城京に送ります。</p>
<p>平城京遷都を拒否することに決めた嵯峨天皇は田村麻呂を大納言に昇進させましたが、自らの詔勅に背く動きを知った平城上皇は激怒し、薬子とともに東国に向かって挙兵しようとしました。</p>
<p>そのため、嵯峨天皇は田村麻呂にこれを阻止するように命じ、進路を遮られた平城上皇は都に戻って出家し、薬子は服毒自殺して、<span class="marker">薬子の変</span>は終わりを告げました。</p>
<p>その後811年5月13日、病に伏せていた田村麻呂は54歳で亡くなりました。</p>
<p><!--Ads1--></p>
<h2>坂上田村麻呂のエピソード・逸話</h2>
<h3>坂上田村麻呂の人物像</h3>
<p>田村麻呂は身長が約176㎝、胸の厚さは約36㎝、赤ら顔で目は鷹のように鋭く、髭は黄金だったとされています。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
当時としてはとても背が高く、立派な体格だったためか、田村麻呂は黒人だったという「坂上田村麻呂黒人説」まで存在しています。
</div>
</div></div>
<p>目立つルックスで武勇に優れ、毘沙門天の生まれ変わりであると噂された田村麻呂のイメージは、“怖くて恐ろしい人”が強いかもしれませんが、「怒って目をめぐらせば猛獣もたちまち死ぬほどだが、笑って眉を緩めれば稚児もすぐ懐に入るようであった」といわれていることから、怖いだけではなく、優しい人だったことが窺えます。</p>
<h3>坂上田村麻呂と清水寺</h3>
<p>清水寺は798年に法相宗の寺として建立されましたが、805年に増改築して現在の清水寺になりました。</p>
<p>780年、妻・高子の病気平癒のため、薬になる鹿の生き血を求めて音羽山に入り込んだ田村麻呂は、修行中の賢心（後の延鎮上人）に出会い、殺生の罪を説かれたことで観音に帰依し、観音像を祀るために自らの邸宅を本堂として寄進します</p>
<p>その後、征夷大将軍となり、蝦夷征討を命じられた田村麻呂は、自ら建立した清水寺に参拝し、無事に都に帰ることができました。</p>
<p>そのため、798年に田村麻呂は延鎮上人と協力して本堂を改築し、観音像の脇侍として地蔵菩薩と毘沙門天の像を造って祀ったとされていることから、清水寺では延鎮を開山とし、田村麻呂を本願と位置づけています。</p>
<h2>坂上田村麻呂のまとめ</h2>
<div class="kaisetsu-box3">
<div class="kaisetsu-box3-title">まとめ</div>
<ul>
<li>758年：坂上苅田麻呂の2男または3男として生まれる</li>
<li>794年：征東副使に任命され、蝦夷征討で活躍する</li>
<li>797年：征夷大将軍に任命される</li>
<li>802年：胆沢城を設置、アテルイが降伏する</li>
<li>803年：志波城を設置</li>
<li>810年：薬子の変を鎮圧</li>
<li>811年：54歳で亡くなる</li>
</ul>
</div>
<p>現在、京都市にある西野山古墓が田村麻呂の墓所とされていますが、そこからは金装大刀や金銀平脱双鳳文鏡など多くの副葬品が出土しており、重要な人物が埋葬されていることを示しています。</p>
<p><a href="https://rekishigaiden.com/sagatenno/">嵯峨天皇</a>の勅命により、甲冑を身に着けて太刀を持ち、立った姿のまま棺に入れられた田村麻呂は、平安京を守護するため、東の方角に向けて埋葬されました。</p>
<p>死後も平安京を守る盾とされた田村麻呂は軍神として信仰の対象となり、現在では武芸の神として親しまれています。</p>
]]></content:encoded>
					
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		<item>
		<title>【桓武天皇がやったことまとめ】政策や遷都などを簡単に</title>
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		<dc:creator><![CDATA[まさむね]]></dc:creator>
		<pubDate>Thu, 12 Sep 2019 02:57:02 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[平安時代]]></category>
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					<description><![CDATA[桓武天皇（かんむてんのう）といえば、長岡京と平安京に遷都したことで有名ですが、どんな人物だったのでしょうか。 平安時代の幕を開いた桓武天皇は、遷都の他にも3度にわたる蝦夷征討をするなど積極的に政治を行っており、その剛腕ぶ]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>桓武天皇（かんむてんのう）といえば、長岡京と平安京に遷都したことで有名ですが、どんな人物だったのでしょうか。</p>
<p>平安時代の幕を開いた桓武天皇は、遷都の他にも3度にわたる蝦夷征討をするなど積極的に政治を行っており、その剛腕ぶりは歴代天皇のなかでも際立っています。</p>
<p>この記事では<span class="marker">桓武天皇についてどんな人物だったのか</span>、簡単にわかりやすく紹介してみたいと思います。</p>
<h2>桓武天皇のプロフィール</h2>
<div class="simple-box1">
<ul>
<li>桓武天皇（かんむてんのう）</li>
<li>諱：山部（やまのべ）</li>
<li>父：<a href="https://rekishigaiden.com/konintenno/">光仁天皇</a>（第49代天皇）</li>
<li>母：高野新笠</li>
<li>享年70（737年～806年3月17日）</li>
<li>第50代天皇（在位：781年4月3日～806年3月17日）</li>
</ul>
</div>
<h2>桓武天皇は何した人？</h2>
<p>桓武天皇は本来なら天皇になるはずではなかった人物でした。</p>
<p>それなのに、なぜ即位して天皇となり、さまざまな改革を行うことができたのでしょうか。</p>
<h3>誕生と即位まで</h3>
<p>737年、桓武天皇は<a href="https://rekishigaiden.com/konintenno/">白壁王（後の光仁天皇）</a>の第1皇子として生まれました。</p>
<p>第1皇子として生まれたものの、母・高野新笠（たかののにいがさ）が百済系渡来人和氏の出身だったことと、当時の皇統が<a href="https://rekishigaiden.com/tenditenno/">天智天皇</a>の弟・<a href="https://rekishigaiden.com/tenmutenno/">天武天皇</a>の系統で引き継がれていたことから、出自が低くて天智天皇の血を引く桓武天皇は、多くの皇位継承候補の一人に過ぎませんでした。</p>
<p>そのため、桓武天皇は皇族としてではなく官僚としての出世を目指していましたが、後継者がいなかった称徳天皇（第48代天皇）が崩御した後、父・白壁王が光仁天皇として即位したことで、皇位を継承できる可能性が見えてきます。</p>
<p>その後、皇位継承をめぐる争いのなかで台頭していった桓武天皇は、藤原百川（ふじわらのももかわ）による策略によって当時皇太子だった異母弟・他戸（おさべ）親王が失脚したため、773年に皇太子となり、781年に<span class="marker">45歳で即位</span>しました。</p>
<h3>長岡京遷都</h3>
<p>当時、平城京では有力貴族による激しい権力争いが繰り返されており、天智天皇系の桓武天皇が即位したことに不満を持つ者が多く、その政権基盤は脆弱なものでした。</p>
<p>また、僧侶たちが政治権力を持ち始め、道鏡（どうきょう）のように天皇の地位を狙う者まで現れるなど、仏教勢力も桓武天皇を悩ませていました。</p>
<p>さらに、平城京そのものも問題を抱えていました。</p>
<p>大きな川から離れている平城京では効率的に荷物を運ぶことができず、小さな川しか流れていないことで常に水が不足し、捨てられた生活排水や汚物が溝に溜まって衛生状態も最悪なものとなっていたのです。</p>
<p>そのため、桓武天皇は反対勢力に囲まれ、問題を抱えている平城京から都を別の土地に遷すことを決意します。</p>
<div class="m50"></div>
<p>候補地を探すなか、藤原種継（ふじわらのたねつぐ）が平城京の北40㎞に位置し、近くに大きな川が流れている山背国（京都府）長岡が新たな都に相応しいと奏上したことから、784年に<span class="marker">長岡京へ遷都</span>します。</p>
<p>そして、政治と結びつきの弱い新たな仏教を取り入れるため、<a href="https://rekishigaiden.com/saicho/">最澄</a>を還学生（短期留学生）として唐に派遣しました。</p>
<p>桓武天皇は長岡京に仏教寺院の建立や移転を認めないことで、仏教勢力を政治から排除し、藤原種継とその一族を重用する一方で、反対勢力を政治の中枢から遠ざけることで、天皇としての地位と政権基盤を強固なものにしていきました。</p>
<div class="m50"></div>
<p>しかし785年、長岡京造営の責任者になっていた藤原種継が暗殺され、桓武天皇の弟・早良（さわら）親王（光仁天皇の第2皇子）がこの事件に関わっていたことが明らかになります。</p>
<p>桓武天皇は早良親王を幽閉して淡路国（兵庫県淡路島）へ流罪にしましたが、無実を訴えるために絶食した早良親王は、その道中で亡くなってしまいました。</p>
<p>その後、飢饉や疫病によって多くの人が亡くなり、桓武天皇の母や皇后までも亡くなった原因が早良親王の祟りによるものだという占いの結果を受けた桓武天皇は、早良親王の御霊を鎮めるための儀式を行います。</p>
<p>しかし、その2ヶ月後に大雨によって長岡京に流れる川が氾濫し、多くの被害が出てしまいました。</p>
<h3>平安京遷都</h3>
<p>次から次へと災害が起こり、人々の不満が高まっていくなか、それが天皇の徳のない証拠であり、天子の資格がないと判断されることを恐れた桓武天皇は、2度目の遷都を決断します。</p>
<p>そして、長岡京の北東10㎞に位置し、2つの川に挟まれた山背国葛野（京都府京都市）に新たな都を築くことにし、この都に「平安楽土」になるようにと願いを込めて、<span class="marker">平安京と名付け、794年に遷都しました。</span></p>
<h3>勘解由使設置</h3>
<p>桓武天皇は崩壊の危機に直面していた律令体制を再建するため、新しい官職である令外官（律令に記されていない官職）を設置します。</p>
<p>令外官の一つである勘解由使（かげゆし）は、国司交替の際に立ち会って不正を防止することを職務とするもので、後任者が前任者に与える解由状（事務引き継ぎ完了を示す文書）を検査して、不正をしていないか確かめさせました。</p>
<h3>蝦夷征討</h3>
<p>当時、律令体制は地方で大きく揺らいでいましたが、それが最も酷かったのは東北地方でした。</p>
<p>780年、帰属した蝦夷の豪族・伊治呰麻呂（これはり／これはるのあざまろ）が反乱を起こして、伊治城や多賀城を襲撃したことをきっかけに、東北地方で蝦夷の反乱が相次いで起こります。</p>
<p>そのため789年、紀古佐美（きのこさみ）を征夷大使、<a href="https://rekishigaiden.com/tamuramaro/">坂上田村麻呂（さかのうえのたむらまろ）</a>を征夷副使とする軍勢が<span class="marker">蝦夷征討</span>に向かいましたが、蝦夷の軍事指導者・アテルイに打ち破られて失敗に終わりました。</p>
<div class="m50"></div>
<p>794年、大伴弟麻呂（おおとものおとまろ）を征夷大使、坂上田村麻呂を征夷副使とする大軍を送り、成果を挙げることができました。</p>
<p>797年、桓武天皇は蝦夷討伐のために設けられた令外官である征夷大将軍に坂上田村麻呂を任じます。</p>
<p>そして801年、坂上田村麻呂を征夷大将軍として送り、蝦夷を討伏しました。</p>
<div class="m50"></div>
<p>その後、4802年に胆沢城を設置して鎮守府を多賀城から移し、803年に志波城を設置したことで、北上川の北部にまで律令制の支配を及ぼすことが可能となりました。</p>
<p>桓武天皇は引き続き征討計画を立てましたが、平安京の造営と東北への軍事遠征が財政を圧迫し、国民に大きな負担をかけているという藤原緒嗣（ふじわらのおつぐ）の建言を受け容れ、805年に蝦夷征討と平安京造営という二大事業を打ち切ることを決定します。</p>
<p>その4か月後、806年3月17日に桓武天皇は70歳で崩御しました。</p>
<p><!--Ads1--></p>
<h2>桓武天皇のエピソード・逸話</h2>
<h3>へそ石</h3>
<p>京都市の中京区に建つ六角堂の境内には、<span class="marker">へそ石</span>と呼ばれる六角形の石があります。</p>
<p>この六角堂は平安京を造営する際に、東西に走る予定の道にあたってしまいました。</p>
<p>そのため、六角堂を壊すことも考えられましたが、<a href="https://rekishigaiden.com/syotokutaishi/">聖徳太子</a>が建立した寺だったため、何とか壊さずにしたいと思った桓武天皇は、使者を送って南北どちらかに移動するように祈願したところ、周りに黒雲がたちこめて北に15メートル移動し、礎石だけが元の位置に取り残されてしまいました。</p>
<p>これ以後、礎石は明治時代頃まで六角堂の前の通りにありましたが、道の妨げとなることから境内の中へと移され、そこが京都の中心にあたることから「へそ石」と呼ばれています。</p>
<h3>彼岸会の始まり</h3>
<p>桓武天皇の実の弟である早良親王は11歳の頃に出家し、親王禅師と呼ばれていましたが、桓武天皇が45歳という高齢で即位したため、還俗して皇太子となりました。</p>
<p>しかし785年、藤原種継暗殺事件に関与していたとされた早良親王は、皇太子を廃されて流罪となりましたが、その道中で亡くなってしまいます。</p>
<p>その後、桓武天皇の身内が相次いで亡くなり、長岡京で疫病や水害が起こった原因が早良親王の祟りだとされた桓武天皇は鎮魂の儀式を執り行い、800年に追号という形で早良親王に崇道天皇の名を送り、早良親王が天皇に即位したということにしました。</p>
<p>しかし、怨霊への恐れがおさまらなかった桓武天皇は早良親王の遺骸を大和国（奈良県）に移葬し、806年に平城天皇が崇道天皇社を創建しました。</p>
<p>そして、早良親王ために諸国の国分寺の僧に命じ、7日間金剛般若経を読んだことが、<span class="marker">日本で初めての彼岸会</span>とされています。</p>
<h2>桓武天皇のまとめ</h2>
<div class="kaisetsu-box3">
<div class="kaisetsu-box3-title">まとめ</div>
<ul>
<li>737年、光仁天皇の第1皇子として生まれる</li>
<li>781年、45歳で第50代天皇に即位する</li>
<li>784年、長岡京に遷都する</li>
<li>789年、第1次蝦夷征討を行うが敗北する</li>
<li>794年、平安京に遷都し、第2次蝦夷征討を行う</li>
<li>801年、第3次蝦夷征討を行う</li>
<li>806年、70歳で崩御する</li>
</ul>
</div>
<p>桓武天皇は2度の遷都と3度にわたる蝦夷征討を行ったことで、国民に多くの負担を強いてしまいましたが、『日本後記』には、その事業は「当年の費えといえども、後世の頼り」と記されています。</p>
<p>つまり、その時代では出費であっても、後の時代に頼りにすることができるものと評価されているのです。</p>
<p>千年の都の原点となった平安京は全国から人や物資が集まり、日本の中心として栄えていきました。</p>
<p>その後、平安京ではさまざまな芸術や文化が育まれましたが、その技術や精神は現在に至るまで引き継がれています。</p>
]]></content:encoded>
					
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			</item>
		<item>
		<title>最澄ってどんな人？空海との関係や名言をまとめてみました</title>
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					<comments>https://rekishigaiden.com/saicho/#respond</comments>
		
		<dc:creator><![CDATA[まさむね]]></dc:creator>
		<pubDate>Sat, 07 Sep 2019 03:25:07 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[平安時代]]></category>
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					<description><![CDATA[最澄（さいちょう）といえば、天台宗の開祖として有名ですが、どんな人物だったのでしょうか。 同じ時代に真言宗を開き、多くの伝説を残している空海の影に隠れて地味なイメージがありますが、実際はどうだったのでしょう。 この記事で]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>最澄（さいちょう）といえば、天台宗の開祖として有名ですが、どんな人物だったのでしょうか。</p>
<p>同じ時代に真言宗を開き、多くの伝説を残している<a href="https://rekishigaiden.com/kukai/">空海</a>の影に隠れて地味なイメージがありますが、実際はどうだったのでしょう。</p>
<p>この記事では<span class="marker">最澄についてどんな人物だったのか</span>、簡単にわかりやすく紹介してみたいと思います。</p>
<h2>最澄のプロフィール</h2>
<div class="simple-box1">
<ul>
<li>最澄（さいちょう）</li>
<li>俗名：三津首広野（みつのおびとひろの）</li>
<li>諡号：伝教大師（でんぎょうだいし）</li>
<li>父：三津首百枝（みつのおびとももえ）</li>
<li>母：藤子（妙徳夫人）</li>
<li>享年56（766年／767年8月18日～822年6月4日）</li>
</ul>
</div>
<h2>最澄は何した人？</h2>
<h3>誕生と出家</h3>
<p>766年（一説には767年）、最澄は近江国（滋賀県）坂本の生源寺の辺りで、地元の豪族・三津首百枝の長男として生まれました。</p>
<p>幼名は広野と言い、幼い頃からとても優秀だった広野は、さまざまな学問に励みました。</p>
<p>778年、仏教への信仰が厚い両親の影響で、12歳のときに僧侶となる道を選び、近江国の国分寺に入って出家し、行表（ぎょうひょう）の弟子となります。</p>
<p>そして780年、14歳で得度（僧侶となるための出家の儀式）し、名前を最澄と改めました。</p>
<p>その後、厳しい修行と勉学に励んだ最澄は、785年に奈良の東大寺で具足戒（僧侶として守らなければならない生活規範）を受け、国に認められた正式な僧侶となりました。</p>
<h3>比叡山入山</h3>
<p>国家公認の僧侶となった最澄は出世の道を選ぶことができましたが、受戒後3ヶ月足らずで奈良を離れ、<span class="marker">仏道修行のために比叡山に入る</span>ことを決意します。</p>
<p>788年、最澄は一乗止観院（後の延暦寺根本中堂）という小堂を建て、そこに自ら刻んだ薬師如来像を安置し、仏の教えが永遠に伝えられることを願って灯明を供えました。</p>
<p>この灯明は「不滅の法灯」と呼ばれており、1200年以上経った現在でも大切に受け継がれて、根本中堂に灯されています。</p>
<div class="m50"></div>
<p>比叡山で修行を続けるなかで、あらゆる仏教書を読破した最澄は、中国天台宗の祖・智顗（天台大師）の教えと出会い、<span class="marker">『法華経』</span>を中心とする天台宗こそが、全ての人を仏へ導くための最善の教えだと確信しました。</p>
<p>天台宗の教えに大きく心を動かされた最澄は、さらに厳しい修行に励み、その評判は朝廷にまで広がります。</p>
<div class="m50"></div>
<p>797年、最澄は宮中で天皇の側に仕え、病気回復を祈る内供奉十禅師（ないぐぶじゅうぜんじ）に任命されました。</p>
<p>801年には南都六宗（奈良時代の6つの仏教宗派）の高僧10人を比叡山に招いて『法華経』についての法会を開き、天台教学による『法華経』の見解を披露するとともに、南都六宗の学識を学びました。</p>
<p>そして、802年に<a href="https://rekishigaiden.com/kanmutenno/">桓武天皇</a>の側近である和気広世（わけのひろよ）から、高雄山寺（神護寺）法華会の講師に招かれたことで最澄の名声は高まり、桓武天皇から還学生（短期留学生）として入唐する許可を得ることができました。</p>
<h3>入唐</h3>
<p>804年、最澄は<span class="marker">天台宗を極めるため、遣唐使船に乗って唐に渡ります。</span></p>
<p>そして、修禅寺の道邃（どうすい）から天台法門の書写を許された後、天台宗の聖地である天台山に赴き、仏隴寺の行満（ぎょうまん）から天台教学を学び、翛然（しゅくねん）からは坐禅の教えを受けました。</p>
<p>さらに、日本への帰国が延期されたため、竜興寺で順暁（じゅんぎょう）から密教を学ぶことができました。</p>
<h3>帰国と天台宗の樹立</h3>
<p>805年、帰国した最澄は天台宗を広めるため、年分度者に天台宗の2名を加えることを求め、許可されました。</p>
<p>年分度者とは国家が正式に認めた僧侶のことで、毎年各宗派によって人数が決められていましたが、これに天台宗の2名を加えることを許可されたことで、南都六宗と並んで<span class="marker">天台宗は正式に認められる</span>ことになりました。</p>
<h3>空海との交流</h3>
<p><a href="https://rekishigaiden.com/kanmutenno/">桓武天皇</a>が崩御した後、即位した<a href="https://rekishigaiden.com/sagatenno/">嵯峨天皇</a>は唐で密教の教えを受けた<a href="https://rekishigaiden.com/kukai/">空海</a>を高く買っていました。</p>
<p>そのため、最澄は教えを請うために弟子とともに空海のもとを訪ね、灌頂（さまざまな戒律や資格を授けて正統な継承者とするための儀式）を受けることを懇願します。</p>
<p>空海はこれを了承しましたが、灌頂を受けるためには、最低でも3年間修行に励まなければならないと言われたので、最澄は自分の代わりに弟子の泰範（たいはん）を空海のもとに送りました。</p>
<div class="m50"></div>
<p>その後、最澄は空海から経典を借りて密教への理解を深めていきましたが、密教の重要な経典である『理趣釈経』を貸して欲しいと頼んだことで空海との交流に亀裂が入ってしまいます。</p>
<p>「理趣経」は欲を肯定し、男女の性愛でさえも清いものと説く経典だったため、注釈書を読むだけでは誤った解釈をしかねないと思った空海は、最澄に直接学びにくるように促し、注釈書を貸すことを断りました。</p>
<p>さらに、空海のもとに送っていた泰範に帰ってくるように要請しましたが、空海に師事していた泰範は最澄のもとに帰ることを拒んだこともあり、<span class="marker">最澄は空海との交流を断ってしまいます。</span></p>
<h3>大乗戒壇の設立と最澄の最期</h3>
<p>818年、最澄は20歳のときに東大寺で受けた具足戒を破棄しました。</p>
<p>当時、正式な僧侶となるためには、奈良の東大寺、下野の薬師寺、筑紫の観世音寺に設けられていた戒壇で受戒しなければいけませんでしたが、最澄はこの戒壇で授ける戒律は、自分だけの悟りを目指す小乗仏教の戒律だと考え、人々を仏へ導くことを目指す大乗仏教の戒壇を設置しようとします。</p>
<p>そのため、比叡山に天台宗独自の大乗戒壇を設立することを朝廷に願い出ましたが、南都六宗の僧侶たちが猛反対したため、許可されませんでした。</p>
<p>最澄は南都六宗の僧侶と論争を続け、比叡山で僧侶を育成することを求めましたが、許可を得ることができないまま、822年6月4日56歳で亡くなりました。</p>
<p>そして866年、功績が称えられ、日本で初めての大師号である<span class="marker">「伝教大師（でんぎょうだいし）」の諡号（しごう）が清和天皇から贈られました。</span></p>
<p><!--Ads1--></p>
<h2>最澄のエピソード・逸話</h2>
<h3>最澄の名言</h3>
<p>真面目で秀才だった最澄は多くの名言を残しています。</p>
<div class="m50"></div>
<div class="jin-iconbox green-iconbox">
<div class="jin-iconbox-icons"><i class="jic jin-ifont-comment jin-icons"></i></div>
<div class="jin-iconbox-main green--border">一燈照隅　万燈照国（いっとうしょうぐう　ばんとうしょうこく）</div>
</div>
<p>（一人ひとりが自分の身近にある一隅を照らす。<br />
それだけでは小さいあかりかもしれないが、その一隅を照らす人が増えていき、万のあかりとなれば、国全体を照らすことができる。）</p>
<div class="m50"></div>
<div class="jin-iconbox green-iconbox">
<div class="jin-iconbox-icons"><i class="jic jin-ifont-comment jin-icons"></i></div>
<div class="jin-iconbox-main green--border">一隅を照す、これ則ち国宝なり。</div>
</div>
<p>（世の中で自分の役割をしっかり果たすことができる人物こそが、国の宝である。）</p>
<div class="m50"></div>
<div class="jin-iconbox green-iconbox">
<div class="jin-iconbox-icons"><i class="jic jin-ifont-comment jin-icons"></i></div>
<div class="jin-iconbox-main green--border">忘己利他（もうこりた）</div>
</div>
<p>自分のことは忘れて、他人のために尽くすことを言い、最澄は「己を忘れて他を利するは慈悲の究極なり」と説いています。</p>
<h3>八舌の鑰（はちぜつのかぎ）</h3>
<p>中国で天台宗を開いた智顗（ちぎ）は、亡くなる前に「自分の死後200年後に、東方の国で天台の思想が再び興隆するだろう。その時までこの蔵は閉ざす」と言って錠をかけ、そのカギを東の空へ向けて高く投げました。</p>
<p>投げられたカギは行方が分からなくなり、以来その蔵は「開かずの経蔵」となってしまいましたが、最澄が比叡山の土の中からこのカギを発見しました。</p>
<p>このカギは八つの突起を持っていることから、「八舌の鑰」と呼ばれています。</p>
<p>その後、唐に渡って天台山を訪ねた最澄が、開かずの経蔵となっていた蔵に比叡山の地中から発見したカギを合わせると扉は開きました。</p>
<p>これに驚いた天台山の僧侶たちは、最澄を智顗の生まれ変わりとし、蔵に納められていた経典や密教の道具を贈ったとされています。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
一説には、初めて最澄が比叡山に登ったときに、人の姿に変身した仏様から授けられたともいわれているこのカギは、重宝として比叡山延暦寺に保管されています。
</div>
</div></div>
<h2>最澄のまとめ</h2>
<div class="kaisetsu-box3">
<div class="kaisetsu-box3-title">まとめ</div>
<ul>
<li>766年／767年、近江国の豪族の長男として生まれる</li>
<li>780年、得度して最澄と名乗る</li>
<li>785年、東大寺で具足戒を受けた後に比叡山に入る</li>
<li>804年、天台宗を極めるために唐に渡る</li>
<li>805年、帰国して天台宗を樹立する</li>
<li>822年、大乗戒壇を設立する許可を得られないまま、56歳で亡くなる</li>
<li>866年、清和天皇から伝教大師の諡号が贈られる</li>
</ul>
</div>
<p>最澄が亡くなってから7日後、比叡山に戒壇を設立することが許可され、最澄の死を惜しんだ<a href="https://rekishigaiden.com/sagatenno/">嵯峨天皇</a>は「延暦寺」という寺号を授けました。</p>
<p>その後、延暦寺は日本天台宗の基礎を築いた円仁・円珍や、鎌倉仏教の開祖である法然・栄西・<a href="https://rekishigaiden.com/shinran/">親鸞</a>・<a href="https://rekishigaiden.com/dogen/">道元</a>・日蓮などの名僧を輩出しており、最澄の教えは各宗派に受け継がれています。</p>
]]></content:encoded>
					
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			</item>
		<item>
		<title>空海（弘法大師）ってどんな人？伝説やしたことを簡単に解説</title>
		<link>https://rekishigaiden.com/kukai/</link>
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		<dc:creator><![CDATA[まさむね]]></dc:creator>
		<pubDate>Wed, 04 Sep 2019 02:19:42 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[平安時代]]></category>
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					<description><![CDATA[空海（くうかい）といえば、日本に密教を伝え、真言宗を開いたことで有名ですが、どんな人物だったのでしょうか。 弘法大師（こうぼうだいし）という名前でも知られ、多くの才能を発揮したマルチ人間とされていますが、実際はどうだった]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>空海（くうかい）といえば、日本に密教を伝え、真言宗を開いたことで有名ですが、どんな人物だったのでしょうか。</p>
<p>弘法大師（こうぼうだいし）という名前でも知られ、多くの才能を発揮したマルチ人間とされていますが、実際はどうだったのでしょう。</p>
<p>この記事では<span class="marker">空海（弘法大師）についてどんな人物だったのか</span>、簡単にわかりやすく紹介してみたいと思います。</p>
<h2>空海（弘法大師）のプロフィール</h2>
<div class="simple-box1">
<ul>
<li>空海（くうかい）</li>
<li>俗名：佐伯眞魚（さえきのまお）</li>
<li>諡号：弘法大師（こうぼうだいし）</li>
<li>父：佐伯直田公</li>
<li>母：玉依御前</li>
<li>享年62（774年6月15日～835年3月21日）</li>
</ul>
</div>
<h2>空海（弘法大師）は何した人？</h2>
<p>平安時代初期、空海は<span class="marker">高野山を中心に新たな教えである密教を広めました</span>が、空海は始め官僚を目指していました。</p>
<p>なぜ空海は官僚への道を捨てて唐に渡り、密教を極めたのでしょうか。</p>
<h3>誕生と少年時代</h3>
<p>774年、空海は讃岐国（香川県）多度郡屏風ヶ浦（善通寺市）で、地元の豪族・佐伯直田公（さえきのあたいたぎみ）と阿刀（あと）氏の玉依御前（たまよりごぜん）の3男として生まれました。</p>
<p>幼名は真魚と言い、幼い頃から「貴物（とうともの）」と呼ばれるほど優秀だった空海は、将来は官僚になることを期待されて育てられます。</p>
<h3>青年時代</h3>
<p>当時、官僚になるためには都にある大学に入る必要がありましたが、大学に入学できたのは貴族の子弟がほとんどで、空海のような地方豪族の子どもが入学することはとても困難なことでした。</p>
<p>そのため789年、15歳のときに上京し、母方の叔父で学者の阿刀大足（あとのおおたり）から論語・孝経・史伝・文章などを学び、学問に励みます。</p>
<p>その結果792年、18歳のときに難関を突破して大学に入学することができました。</p>
<p>そして、<span class="marker">明経道（儒学を研究・教授する学科）を専攻</span>し、春秋左氏伝・毛詩・尚書などを必死で学びました。</p>
<p>しかし、どんなに成績が優秀でも、藤原氏を中心とする中央貴族が実権を握っているなかでは、地方豪族出身という立場では官僚として出世できないとういう現実に直面します。</p>
<p>また、出世を目的とした学問では幸せになれないと考えるようになった空海は、大学を中退してしまいました。</p>
<h3>仏道修行</h3>
<p>793年、苦悩を抱えていた空海は、一人の僧と出会い、<span class="marker">「虚空蔵求聞持法（こくうぞうぐもんじほう）」という密教の修行の方法を教わります。</span></p>
<p>「虚空蔵求聞持法」とは1つの真言（仏の真実の言葉）を100万回繰り返して唱えるというもので、空海は山岳修行に励み、阿波国（徳島県）の大瀧岳や伊予国（愛媛県）の石鎚山などの霊地を経て、室戸岬に辿り着きました。</p>
<p>そこで、明けの明星が口の中に入るという神秘的な体験をします。</p>
<p>797年、空海は出家することを決意しますが、親族が反対したため、『三教指帰（さんごうしいき）』を著し、そのなかで仏教・儒教・道教を比較して、「儒教より道教の方が優れているが、その道教よりも仏教の方が優れている」と世間の教えが真実でないことを示しています。</p>
<h3>大日経との出会い</h3>
<p>「虚空蔵求聞持法」を習得した空海は各地の寺を訪ねて、様々な宗派の経典を読みあさりました。</p>
<p>そのなかで、<span class="marker">大日経という密教の根本経典に出会います。</span></p>
<p>空海はこれこそが、自分が求めている仏教だと確信しましたが、分からないことが多かったので、大日経の教えを理解している人を探して回りました。</p>
<p>しかし、日本には一人もいなかったので、唐にわたる決心をします。</p>
<h3>入唐と恵果和尚に師事</h3>
<p>804年、<span class="marker">遣唐使船に乗って唐へ出発</span>しましたが、激しい嵐に遭遇したため、予定地から大きく逸れた福州に漂着しました。</p>
<p>そのため、海賊の嫌疑をかけられてしまいましたが、空海が格調高い文章で福州の長官へ嘆願書を書いたことで正式な遣唐使節と認められ、無事に唐の都である長安に入ることができました。</p>
<p>そして805年、<span class="marker">密教の第一人者とされていた恵果（けいか）和尚のもとを訪ねます。</span></p>
<p>恵果と対面した空海は、「私はあなたがここに来ることを知っていて待っていた。私は寿命が尽きようとしているのに、法を伝えるべき人がいないことを残念に思っていた。急いで準備しなさい」という思いがけない言葉をかけられました。</p>
<p>1000人もの弟子を抱え、3代にわたる唐の皇帝まで弟子にしていながら、密教の継承者を見出せずにいた恵果にとって、空海は待ち望んでいた人物だったのです。</p>
<p>恵果から一対一の口伝によって密教の教えを授かり、わずか3ヶ月で密教の全てを学んだ空海は、<span class="marker">密教の正統な継承者として「伝法阿闍梨（でんぽうあじゃり）」の位を授かりました。</span></p>
<p>そして、恵果は「急いで日本に帰り、この教えを国中に広めなさい」と空海に言った後になく亡くなります。</p>
<p>そのため、空海は本来20年唐に滞在しなければならない留学を2年で切り上げて帰国する決意をし、留学費用を使って、日本にはない経典・法具・曼荼羅など布教のために必要な物を買い集めました。</p>
<h3>帰国と最澄との交流</h3>
<p>806年、唐から帰国した空海は、20年間留学しなかった罪で大宰府に留め置かれます。</p>
<p>どうしても都に戻りたかった空海は、唐から持ち帰った経典や法具が貴重なものであることを記した<span class="marker">『御請来目録』を朝廷に提出</span>しましたが、誰も見向きもしませんでした。</p>
<p>ところが、<a href="https://rekishigaiden.com/saicho/">最澄（さいちょう）</a>だけがこの目録に驚きます。</p>
<p>全くの無名だった空海に比べ、仏教界のエリートだった最澄は、空海と同じ年の遣唐使として唐に渡り、天台宗の教えを修めた後、帰国直前の1ヶ月だけ密教を学んでいました。</p>
<p>最澄は日本に初めて密教を伝えた者として朝廷に歓迎されていましたが、空海が持ち帰って経典の目録を見て愕然としていたのです。</p>
<div class="m50"></div>
<p>809年、空海は最澄の支援によって都へ戻ることができました。</p>
<p>そして、自分の密教が不完全なものであることを自覚した<span class="marker">最澄は空海の弟子になり</span>、密教への理解を深めていきました。</p>
<p>しかし4年後、最澄が「理趣釈経」を貸して欲しいと頼んだことで、二人の関係に亀裂が入ります。</p>
<p>欲を肯定し、男女の性愛でさえ清いものと説く「理趣釈経」は、読み間違えれば誤解を招く可能性があったので、空海は経典を貸すことを拒否し、最澄との交流は絶たれてしまいました。</p>
<a href="https://rekishigaiden.com/saicho/" class="blog-card"><div class="blog-card-hl-box"><i class="jic jin-ifont-post"></i><span class="blog-card-hl"></span></div><div class="blog-card-box"><div class="blog-card-thumbnail"><img src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/09/saicho-320x180.jpg" class="blog-card-thumb-image wp-post-image" alt="最澄" loading="lazy" width ="162" height ="91" /></div><div class="blog-card-content"><span class="blog-card-title">最澄ってどんな人？空海との関係や名言をまとめてみました</span><span class="blog-card-excerpt">最澄（さいちょう）といえば、天台宗の開祖として有名ですが、どんな人物だったのでしょうか。

同じ時代に真言宗を開き、多くの伝説を残し...</span></div></div></a>
<h3>庶民の救済</h3>
<p>即身成仏を真髄とする真言密教の教義を確立していった空海は、<span class="marker">庶民を救済するために精力的に動き出しました。</span></p>
<p>唐で習得した薬に関する知識を生かして病気を治した他、生まれ故郷の満濃池（まんのういけ）の堤防の修復を自ら指揮し、当時としては最新の土木技術の知識を駆使して工事を完成させます。</p>
<p>一方、朝廷からも重用されるようになった空海は823年に東寺を賜り、教王護国寺と改名して、そこを拠点に国家護持のための仕事を遂行していきました。</p>
<p>さらに、828年には庶民のための教育施設である「綜芸種智院」を創立し、身分貧富に関わりなく、あらゆる思想・学芸を学べることができるようにしました。</p>
<h3>高野山金剛峰寺と空海の最期</h3>
<p>816年、空海は<span class="marker">修禅の道場として高野山の下賜を朝廷に願い出ます。</span></p>
<p>かつて、自分が山野をわたり歩いて仏道修行に励んだように、自然に囲まれた環境で弟子たちが密教修行に励める道場を創建したいという思いから、高野山は開かれました。</p>
<p>空海は高野山で修行をする一方で、東寺で密教を広める生活を続けます。</p>
<p>832年、高野山において催された万燈万華会で、空海は</p>
<div class="simple-box9">
<p>虚空盡き、衆生盡き、涅槃盡きなば、我が願いも盡きなん</p>
<p>（この宇宙の生きとし生けるもの全てが悟りを得て仏となり、涅槃を求めるものがいなくなったとき、私の願いは終わる）</p>
</div>
<p>という誓願を立てました。</p>
<p>死への準備を始めたかのような誓願から3年後、空海は食事も水も断ち、835年3月21日、<span class="marker">62歳で入定（永遠の禅定）しました。</span></p>
<p><!--Ads1--></p>
<h2>空海（弘法大師）のエピソード・逸話</h2>
<h3>空海伝説</h3>
<p>福島県には、水に乏しい地域で飲み水を求めた空海を少女が助けると、翌朝、少女の家の前に湖ができていました。</p>
<p>それが、猪苗代湖だとされています。</p>
<p>福岡県には、お金がなくて船に乗れない空海を渡し舟の船頭がタダで乗せたところ、空海は近くに生えていたヨシの葉を魚（エツ）に変えてしまいました。</p>
<p>エツは、日本では筑後川のみに生息しており、そのきっかけは空海だとされています。</p>
<p>この他にも、空海が杖で叩いて温泉を涌かせたとされる修善寺温泉や、食事の後に地面に挿した柄杓が成長した姿とされる高尾山の飯盛杉など、空海に関する伝説は多く、日本各地に残されています。</p>
<h3>法事と空海</h3>
<p>空海は貴族に密教を広めるため、供養することを勧めます。</p>
<p>当時、権力争いに敗れて死んだ者が呪いや祟りをもたらすと考えられていましたが、空海は供養することでそれを防げるとし、一周忌の際に加持祈祷を行いました。</p>
<p>そして、その場で密教を教えることで、貴族を信者としていきましたが、<span class="marker">空海が行った供養は法事として現代にも受け継がれています。</span></p>
<h2>空海（弘法大師）のまとめ</h2>
<div class="kaisetsu-box3">
<div class="kaisetsu-box3-title">まとめ</div>
<ul>
<li>774年に讃岐国で地方豪族の3男として生まれる</li>
<li>792年に大学に入り、明経道を専攻する</li>
<li>804年、遣唐使として唐に渡り、恵果和尚に師事する</li>
<li>806年、帰国し、朝廷に『請来目録』を提出する</li>
<li>816年、朝廷から高野山を賜る</li>
<li>835年、62歳で入定</li>
<li>921年、醍醐天皇から「弘法大師」の諡号が贈られる</li>
</ul>
</div>
<p>空海の入定から86年後の921年、<span class="marker">醍醐天皇は空海に「弘法大師」の諡号（しごう）を授けました。</span></p>
<p>高野山の僧が醍醐天皇から贈られた着物を納めるために御廟を開けたところ、空海は生前のときのままの姿をとどめていて、生き生きしていたといわれています。</p>
<p>そのため、空海は今でも生き続けて禅定を続けているとされており、高野山の奥の院では早朝6時と午前10時30分に空海の食事が運ばれています。</p>
]]></content:encoded>
					
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			</item>
		<item>
		<title>和泉式部ってどんな人？恋多き歌人の生涯を和歌とともに振り返る</title>
		<link>https://rekishigaiden.com/izumishikibu/</link>
					<comments>https://rekishigaiden.com/izumishikibu/#respond</comments>
		
		<dc:creator><![CDATA[まさむね]]></dc:creator>
		<pubDate>Thu, 29 Aug 2019 02:24:20 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[平安時代]]></category>
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					<description><![CDATA[和泉式部（いずみしきぶ）といえば、平安時代を代表する歌人として有名ですが、どんな人物だったのでしょうか。 歌人として活躍する一方で、次から次へ恋に走った“奔放な女性”というイメージがありますが、実際はどうだったのでしょう]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>和泉式部（いずみしきぶ）といえば、平安時代を代表する歌人として有名ですが、どんな人物だったのでしょうか。</p>
<p>歌人として活躍する一方で、次から次へ恋に走った“奔放な女性”というイメージがありますが、実際はどうだったのでしょう。</p>
<p>この記事では<span class="marker">和泉式部についてどんな人物だったのか</span>、簡単にわかりやすく紹介してみたいと思います。</p>
<h2>和泉式部のプロフィール</h2>
<div class="simple-box1">
<ul>
<li>和泉式部（いずみしきぶ）</li>
<li>幼名：御許丸（おもとまる）</li>
<li>父：大江雅致</li>
<li>母：平保衡の娘</li>
<li>享年60？（976年頃？～1036年頃？）</li>
</ul>
</div>
<h2>和泉式部は何した人？</h2>
<p>関係があったとされる男性は10人以上で、多くの男性を虜にしていると噂されましたが、和泉式部は初めから色恋に溺れるような女性ではありませんでした。</p>
<p>それなのに、なぜ和泉式部は恋に走ってしまったのでしょうか。</p>
<h3>和泉式部の生い立ち</h3>
<p>正確な誕生年は不明ですが、976年頃に和泉式部は大江雅致（まさむね）と平保衡（やすひら）の娘との間に生まれました。</p>
<p>和泉式部は初め御許丸と呼ばれており、母・平保衡の娘が昌子内親王（朱雀天皇の第1皇女）付きの女房だったので、和泉式部も昌子内親王付の女童として宮中で育ったとされています。</p>
<div class="m50"></div>
<p>当時、貴族の女性は家族以外の男性に顔を晒すことは許されず、御簾の中で過ごしていました。</p>
<p>そのため、歌のやり取りによって付き合うかどうかが決まっており、優れた和歌を詠むことができる女性は、より良い結婚相手と巡り合うことができました。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
つまり、モテる条件は顔よりも歌で、和泉式部のような下級貴族の女性にとって、和歌は生きるための術だったのです。
</div>
</div></div>
<p>そのため、和泉式部は幼い頃から父・雅致に和歌を習い、貴族の女性たちが学ぶ手本とされた古今和歌集を全て暗記するように努めていました。</p>
<h3>最初の結婚</h3>
<p>995年頃、和泉式部は<span class="marker">20歳前後で下級貴族の橘道貞と結婚</span>しました。</p>
<p>そして、道貞が和泉守に任じられると、和泉式部は一緒に和泉国へ赴き、夫・道貞の任国と父・雅致の官名から和泉式部と呼ばれるようになります。</p>
<p>結婚当初、二人は仲が良い夫婦で、999年頃には娘の小式部内侍（こしきぶのないし）が生まれました。</p>
<p>この頃、和泉式部は次の歌を詠んでいます。</p>
<div class="simple-box9">
<p>見えもせむ　見もせん人を　朝ごとに　起きては向ふ　鏡ともがな</p>
<p>（いつもそばにいて見つめ合っていたいです。朝起きては見るこの鏡のように。）</p>
</div>
<p>このように、和泉式部は道貞を心から愛していましたが、帰京後に道貞が陸奥守に任じられて単身赴任したことで、二人の関係に暗雲が漂うようになってしまいます。</p>
<h3>禁断の恋</h3>
<p>一人で京都に残ることになった和泉式部は、道貞に会えない寂しさ、恋しさを歌に詠みました。</p>
<div class="simple-box9">
<p>つれづれと　空ぞ見らるる　思ふ人　天降り来ん　物ならなくに</p>
<p>（道貞様のことを想って空ばかり見ています。天から降りて来て下さることなど、あるはずもないのに。）</p>
</div>
<p>やがて、和泉式部の情熱的な歌は評判となり、ある人物の心を捕らえます。</p>
<p>その人物とは為尊親王（冷泉天皇の第3皇子）で、和泉式部の歌に惹かれた為尊親王は積極的に迫ってきましたが、別居中とはいえ夫があり、ましてや下級貴族の者が皇族と親しく付き合うことなど、常識では考えられないことでした。</p>
<p>また、経済的に自立できない貴族女性にとって、妻の座を手放すということは生きていく術を失うことでもあったので、和泉式部も道貞が自分のもとに帰ってくることをひたすら待っていましたが、道貞が別の女性を妻に迎えて一緒に暮らしているという衝撃的な知らせが届きました。</p>
<p>道貞に裏切られた和泉式部は<span class="marker">為尊親王の誘いに応じ、禁断の恋に身を投じてしまいます。</span></p>
<div class="simple-box9">
<p>白波の　よるにはなびく　靡（なび）き藻の　なびかじと思ふ　われならなくに</p>
<p>（白波になびく藻のように私の気持ちも揺れています。誰にもなびくことはないというような頑な女ではないのです）</p>
</div>
<p>和泉式部と為尊親王の恋の噂は瞬く間に宮中に広まり、道貞とは絶縁状態となってしまいました。</p>
<p>そして、父・雅致も禁断の恋に走った和泉式部に激怒し、父から勘当されてしまいます。</p>
<div class="simple-box9">
<p>人の身も　恋にはかへつ　夏虫の　あらはに燃ゆと　見えぬばかりぞ</p>
<p>（せっかくこの世に生まれてきたのに、恋の炎に身を滅ぼしてしまいました。まるで炎のなかで燃え尽きる夏虫のように。）</p>
</div>
<p>全てを失った和泉式部は為尊親王との恋に没頭し、逢瀬を重ねていましたが、約1年後、為尊親王は病で急死してしまいました。</p>
<h3>朝廷を揺るがす大スキャンダル</h3>
<p>為尊親王が亡くなってから約10ヶ月後、悲嘆に暮れる和泉式部のもとに新たな恋の兆しが訪れます。</p>
<p>ある日、為尊親王の弟である敦道親王（冷泉天皇の第4皇子）から一枝の橘の花が届けられました。</p>
<p>橘の花が意味したものは古今和歌集の一首、「五月待つ　花橘の　香をかげば　昔の人の　袖の香ぞする」で、亡き兄を一緒に偲びませんかという思いが込められていました。</p>
<p>敦道親王の心を読み取った和泉式部は次の歌を返します。</p>
<div class="simple-box9">
<p>薫る香に　よそふるよりは　時鳥（ホトトギス）　聞かばや同じ　声やしたると</p>
</div>
<p>和泉式部は敦道親王を橘の花が咲く頃に鳴くホトトギスに見立て、兄・為尊親王と同じ声かあなたの声が聞きたいと、敦道親王を誘う積極的な歌を詠みましたが、この歌はもう一つ別の解釈ができるようになっていました。</p>
<p>当時、ホトトギスは黄泉の国からやって来て亡くなった人の声で鳴くと信じられていたので、亡くなった為尊親王の声が聞きたいと、為尊親王を偲ぶ意味にもとれるようにしていたのです。</p>
<p>敦道親王は和泉式部の歌の上手さに心を奪われて恋が始まり、やがて<span class="marker">和泉式部は敦道親王のもとに迎え入れられました。</span></p>
<p>和泉式部は身分の違いから表向きは召し使いとされていましたが、実際は正妻として扱われていたので、これに傷ついた敦道親王の正妻・藤原済時の娘が家を出て行ってしまいます。</p>
<p>和泉式部が正妻を家から追い出したという大スキャンダルに世間は騒然となり、大きな批判を浴びましたが、二人はその後も仲良く暮らしました。</p>
<p>しかし4年後の1007年、敦道親王が病に倒れて亡くなってしまいます。</p>
<h3>中宮・藤原彰子に出仕</h3>
<p>敦道親王が亡くなってから1年後、和歌の才能が認められた和泉式部は<span class="marker">一条天皇の中宮・藤原彰子に仕える</span>ことになりました。</p>
<p>宮中で働くことになった和泉式部のもとには、多くの男性から恋文が届きましたが、その多くは興味本位のものばかりで、嫉妬が渦巻く宮中での生活に疲れを覚えるようになります。</p>
<h3>再婚と和泉式部の最期</h3>
<p>1013年頃、和泉式部は<span class="marker">20歳も年上で、すでに50歳を過ぎていた藤原保昌と再婚</span>しました。</p>
<p>そして、保昌が丹後守に任じられると一緒に丹後国に赴きましたが、保昌は次第に和泉式部のもとを訪れなくなります。</p>
<p>さらに、1025年頃には娘・小式部内侍が亡くなりました。</p>
<p>その後、和泉式部は病に倒れ、死期が近いことを悟ると次の歌を詠みます。</p>
<div class="simple-box9">
<p>あらざらむ　この世のほかの　思ひ出に　今ひとたびの　逢ふこともがな</p>
<p>（私はもうすぐ死んでしまうでしょう。あの世に持っていく思い出として、もう一度だけあなたに逢いたい。）</p>
</div>
<p>1036年頃、恋に生きた和泉式部は60歳前後で波瀾に満ちた生涯を終えました。</p>
<p><!--Ads1--></p>
<h2>和泉式部のエピソード・逸話</h2>
<h3>浮かれ女</h3>
<p>ある日、宮中で貴族の男性が和泉式部から渡された扇を見せびらかせていると、そこへ<a href="https://rekishigaiden.com/fujiwaranomichinaga/">藤原道長</a>が通りかかり、道長は扇に「うかれ女の扇」と書き、男の出入りが激しいと、和泉式部のことをからかいましました。</p>
<p>その扇を見た和泉式部は、</p>
<div class="simple-box9">
<p>越えもせむ　越さずもあらむ　逢坂の　関もりならぬ　人なとがめそ</p>
<p>（誰と付き合おうと私の自由です。夫でもない道長様にそんなことを言われる筋合いはございません。）</p>
</div>
<p>と書き記して、何事もなかったように去っていきました。</p>
<p>当時の権力者であり、雇い主であった道長に和泉式部が反論できたのは、和歌の世界が身分などの関係がない実力主義の世界だったからで、『源氏物語』の作者である<a href="https://rekishigaiden.com/murasakishikibu/">紫式部</a>は和泉式部について「素行は良くないけど、歌は素晴らしい」と評価しています。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
道長が和泉式部のことを「浮かれ女」と酷評しながらも、娘・彰子に和泉式部を仕えさせたのは、道長が和泉式部を優れた歌人として認めていたからではないでしょうか。
</div>
</div></div>
<h3>和泉式部の最後の思い人</h3>
<p>恋に生きた和泉式部が最後に逢いたいと願ったのは誰だったのでしょう。</p>
<p>最初の夫・道貞か、禁断の恋の相手である為尊親王か、その弟・敦道親王殿下でしょうか。</p>
<p>それとも再婚した藤原保昌だったのでしょうか。</p>
<p>正確な答えは分かりませんが、最後の歌は和泉式部が死ぬ前に逢いたいと詠んでいるのではなくて、死んだ後に逢いたいと願っているとも解釈できるため、その相手は為尊親王か敦道親王のどちらかだったと考えらえます。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
しかし、和泉式部は愛に生きていたので、新しい恋の相手だったかもしれません。
</div>
</div></div>
<h2>和泉式部のまとめ</h2>
<div class="kaisetsu-box3">
<div class="kaisetsu-box3-title">まとめ</div>
<ul>
<li>大江雅致と平保衡の娘との間に生まれる</li>
<li>橘道貞と結婚し、小式部内侍を生む</li>
<li>夫・道貞との別居中に為尊親王と禁断の恋に身を投じる</li>
<li>為尊親王の死後、弟・敦道親王と結ばれる</li>
<li>敦道親王の死後、中宮・彰子に仕える</li>
<li>藤原保昌と再婚した後、娘・小式部内侍に先立たれる</li>
<li>60歳前後で亡くなる</li>
</ul>
</div>
<p>下級貴族の出身でありながら、和泉式部は和歌で人生を切り開いて、<a href="https://rekishigaiden.com/murasakishikibu/">紫式部</a>と<a href="https://rekishigaiden.com/seisyonagon/">清少納言</a>とともに「王朝の三才女」と呼ばれました。</p>
<p>和泉式部の死後、その人生は仏教の教えを広めるための説話として使われ、男性遍歴を重ねた和泉式部でも仏にすがることで極楽往生を遂げることができたと語り継がれました。</p>
<p>そのため、和泉式部のものとされる墓は全国各地に存在していますが、和泉式部の墓があるとされる京都の誠心院には、女性は極楽に行けないとするなかで、和泉式部が得の高い僧侶に救いを求め、その時に捧げた歌をきっかけに極楽往生を成し遂げたという伝説が残されています。</p>
<p>和泉式部が極楽へ導かれるきっかけとなったとされる歌は、</p>
<div class="simple-box9">
<p>暗きより　暗き道にぞ入りぬべき　遥に照せ　山の端の月</p>
<p>（私は今、煩悩の闇の中に迷っています。このままでは、さらに深い闇に暗に入ってしまいそうです。どうか進むべき道を照らして下さい。）</p>
</div>
<p>という歌で、今でも救いを求める多くの女性が和泉式部の墓を訪れています。</p>
]]></content:encoded>
					
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			</item>
		<item>
		<title>チンギスハンってどんな人？源義経と同一人物って本当？</title>
		<link>https://rekishigaiden.com/chingisuhan/</link>
					<comments>https://rekishigaiden.com/chingisuhan/#respond</comments>
		
		<dc:creator><![CDATA[まさむね]]></dc:creator>
		<pubDate>Mon, 26 Aug 2019 05:57:13 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[平安時代]]></category>
		<category><![CDATA[鎌倉時代]]></category>
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					<description><![CDATA[モンゴル帝国を開いたことで有名なチンギス・ハンはどのような人物だったのでしょうか？ 帝国を築くまでの生い立ちやその活躍、エピソードについてご紹介します。 チンギスハンのプロフィール 名前：チンギス・ハン（漢字では成吉思汗]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>モンゴル帝国を開いたことで有名なチンギス・ハンはどのような人物だったのでしょうか？</p>
<p>帝国を築くまでの生い立ちやその活躍、エピソードについてご紹介します。</p>
<h2>チンギスハンのプロフィール</h2>
<div class="simple-box1">
<ul>
<li>名前：チンギス・ハン（漢字では成吉思汗）</li>
<li>生誕：1162年5月31日</li>
<li>死没：1227年8月25日</li>
<li>享年：65歳</li>
</ul>
</div>
<h2>チンギスハンは何した人？</h2>
<p>チンギス・ハンはモンゴルで有力な部族の首長であるイェスゲイ・バアトルの長男として生まれました。</p>
<p>イェスゲイ・バアトルは、有力部族であるケレイトの王トグリルと同盟を結んで勢力を拡大していました。</p>
<p>しかし、イェスゲイはチンギスがわずか9歳のときに暗殺され、母に育てられることになりました。</p>
<p>イェスゲイが亡くなった後、家臣たちは次々に去っていき、周囲の部族たちも好き勝手をするようになりました。</p>
<p>そうして、チンギスもタイチウトという部族に捕らえられてしまいます。</p>
<p>しかし違う部族の助けもあり、なんとか逃げ出すことができました。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
幼い頃から波乱万丈ですね。
</div>
</div></div>
<h3>モンゴルを統一</h3>
<p>成長したチンギスは、亡き父に仕えていた戦士や遊牧民などを従えるようになり、族長としての力を発揮していきます。</p>
<p>当時のモンゴルには大小の様々な部族がいました。</p>
<p>これをチンギスはひとつずつ制圧していきます。</p>
<p>他の部族で特に大きな敵となったのは、ジャムカとオン・ハンという部族でした。</p>
<p>ジャムカはチンギスが狙われていたときに助けてくれた盟友でしたが、このときには敵同士になっていました。</p>
<p>ジャムカはタイチウト族と連合軍を結び立ち向かいますが、チンギスはこれを1200年に撃破します。</p>
<p>その後も次々と部族を制圧し、1205年に<span class="marker">モンゴルを統一する</span>ことに成功しました。</p>
<p>1206年、クリルタイというモンゴル部族長の大集会でハンに抜擢され、名前をチンギス・ハンと称するようになりました。</p>
<p>この即位によりモンゴル帝国が成立しました。</p>
<h3>外国を侵略</h3>
<p>チンギスはモンゴル帝国を強固なものにするために、まず組織改革を行いました。</p>
<p>制圧した遊牧民を領民に、諸部族の指導者を貴族として分けました。</p>
<p>貴族には千人隊長という役職を与え、領民はその下とし、千人隊と呼ばれる集団としました。</p>
<p>将来の幹部を育成するための機関や情報伝達を行うための機関なども設け、軍隊国家の基礎をつくりました。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
武力ではなく、国をまとめるセンスもあったのですね。
</div>
</div></div>
<p>また領土を広げるために、<span class="marker">諸外国への侵略も始めます。</span></p>
<p>1211年、中国の金と開戦します。</p>
<p>最初は中国軍の強靭な守りによって侵略に失敗しました。</p>
<p>しかし、中国との闘いで攻城戦術を学んで攻略できるようになると、1215年には金に勝利し領土にすることができました。</p>
<div class="m50"></div>
<p>1219年頃からは西に勢力を広げます。</p>
<p>ナイマンという国の王は西遼の王位を奪いトルキスタンに逃れていました。</p>
<p>この混乱を利用して、チンギスは家臣を向かわせナイマンを滅ぼしました。</p>
<p>西遼に属していた西ウイグル王国も支配下にし、ウイグル人をモンゴル帝国の官僚にしました。</p>
<p>さらに当時の中央アジアで力を持っていたホラズム・シャー国も征服し、イランにも侵攻しました。</p>
<p>その部下の一部は南ロシアにまで侵入しました。</p>
<div class="m50"></div>
<p>1227年にはモンゴル高原の南に位置する西夏に遠征しました。</p>
<p>しかしこの遠征中に危篤状態となり、この世を去りました。</p>
<p>チンギスの死は敵軍に知られないよう極秘にされ、遺体の搬送作業を見た者は殺害されるほどでした。</p>
<p>モンゴル高原に埋葬されたとされていますが、墓の所在地は現在も分かっていません。</p>
<h3>子孫がモンゴル帝国をさらに拡大</h3>
<p>チンギスには4人の息子がおり、これまでの戦で手に入れた領地を息子たちに分け与えました。</p>
<p>長男のジュチは戦での働きも優秀でしたが、若くして亡くなってしまいました。</p>
<p>次男のチャガタイは気性が荒く、人望がありませんでした。</p>
<p>三男のオゴデイはおとなしく、四男のトゥルイは父親に最もかわいがわれており優秀な実力者でしたが、後継者には三男のオゴデイが指名されました。</p>
<p>ちなみに、四男トゥルイの息子が有名なフビライ・ハンの父親にあたり、<a href="https://rekishigaiden.com/fubiraihan/">フビライ・ハン</a>はチンギス・ハンの孫となります。</p>
<p><span class="marker">フビライ・ハンは祖父が築いたモンゴル帝国をさらに拡大</span>させ、強固なものとしていきました。</p>
<p><!--Ads1--></p>
<h2>チンギスハンは源義経だった？</h2>
<p>チンギス・ハンは<a href="https://rekishigaiden.com/yoshitsune/">源義経</a>だったのではないかという噂があります。</p>
<p>源義経は、鎌倉幕府を開いた<a href="https://rekishigaiden.com/minamotonoyoritomo/">源頼朝</a>の異母弟にあたります。</p>
<p>平氏を滅ぼすために兄に協力し、圧倒的な強さで敵を撃破、討伐の力となりました。</p>
<p>しかし、その強さゆえに源頼朝と対立関係になり、奥州に逃れましたが追い詰められ自害したとされています。</p>
<div class="m50"></div>
<p>しかしこの源義経は亡くなっておらず、蝦夷地に逃げたという一説もあります。</p>
<p>その後大陸に渡り、なんとチンギス・ハンになったという説まで誕生しました。</p>
<p>戦で抜群のセンスを発揮し、次々と敵を倒した功績のある義経は確かに帝国を築いたチンギス・ハンとの共通点もありますが、はっきりとした証拠はどうやらないようです。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
真相は闇の中…ですね。
</div>
</div></div>
<h2>4行でわかるチンギスハンのまとめ</h2>
<div class="kaisetsu-box3">
<div class="kaisetsu-box3-title">まとめ</div>
<ul>
<li>父の死後、一時は敵に捕らえられたりもしたが、部下を統率し力をつけていく</li>
<li>周囲の部族を次々と制圧し、モンゴル帝国を開く</li>
<li>諸外国も侵略し、代々領土を拡大していく基礎を築く</li>
<li>源義経と同一人物の一説があるが、真相ははっきりしていない</li>
</ul>
</div>
<p>チンギス・ハンが築いたモンゴル帝国は、人類史上最大規模といわれています。</p>
<p><a href="https://rekishigaiden.com/yoshitsune/">源義経</a>がチンギス・ハンになったとすると、日本人としては夢がある話ですが、残念ながらはっきりとは分からないようです。</p>
<p>今後真相に迫るような証拠が発見されるといいですね！</p>
]]></content:encoded>
					
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			</item>
		<item>
		<title>紫式部ってどんな人？清少納言との関係や源氏物語を書いた理由など</title>
		<link>https://rekishigaiden.com/murasakishikibu/</link>
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		<dc:creator><![CDATA[まさむね]]></dc:creator>
		<pubDate>Sat, 24 Aug 2019 09:26:21 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[平安時代]]></category>
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					<description><![CDATA[紫式部（むらさきしきぶ）といえば、日本で最初の長編小説である『源氏物語』の作者として有名ですが、どんな人物だったのでしょうか。 『枕草子』の作者で、同じ時代に活躍した清少納言とはライバル扱いされ、仲が悪かったとされていま]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>紫式部（むらさきしきぶ）といえば、日本で最初の長編小説である『源氏物語』の作者として有名ですが、どんな人物だったのでしょうか。</p>
<p>『枕草子』の作者で、同じ時代に活躍した<a href="https://rekishigaiden.com/seisyonagon/">清少納言</a>とはライバル扱いされ、仲が悪かったとされていますが、実際はどうだったのでしょう。</p>
<p>今回は平安時代を代表する女流作家である紫式部についてどんな人物だったのか、簡単にわかりやすく紹介してみたいと思います。</p>
<h2>紫式部のプロフィール</h2>
<div class="simple-box1">
<ul>
<li>紫式部（むらさきしきぶ）</li>
<li>父：藤原為時</li>
<li>母：藤原為信の女</li>
<li>享年？（973年頃？～1014年頃？）</li>
</ul>
</div>
<h2>紫式部は何した人？</h2>
<p>中流階級の出身でありながら、なぜ紫式部は54帖にも及ぶ『源氏物語』を書き上げることができたのでしょうか。</p>
<h3>紫式部の生い立ち</h3>
<p>正確な誕生年は不明ですが、平安時代中期に紫式部は藤原為時（藤原北家良門流）の娘として生まれました。</p>
<p>藤原北家とは藤原房前（ふささき）を始祖とし、平安時代以降に最も栄えた藤原四家の一つで、良門流は藤原北家を代表する一族です。</p>
<p>紫式部は本名も不明ですが、紫式部という呼称は、式部大丞（式部省の官僚）だった為時の官位と、『源氏物語』の登場人物である「紫の上」に由来しているといわれています。</p>
<p>幼いときに母を亡くした紫式部は為時に育てられましたが、為時は花山天皇に漢学を教えていたこともある知識人だったので、その影響を受けて学問に励んだ紫式部は、兄弟の藤原惟規（のぶのり）よりも先に漢文を覚えてしまうほど優秀でした。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
そのため、為時は「男子でなかったことが残念だ」と嘆いたそうです。
</div>
</div></div>
<h3>藤原宣孝との結婚</h3>
<p>998年頃、紫式部は<span class="marker">中流貴族の藤原宣孝（のぶたか）と結婚</span>しました。</p>
<p>結婚時、紫式部は26歳で宣孝は46歳とされていることから、二人の年齢差は20歳もありましたが、999年に長女の藤原賢子が生まれます。</p>
<p>しかし1001年、宣孝が病気で亡くなり、紫式部の結婚生活は約3年で終わってしまいました。</p>
<h3>宮仕えと源氏物語の完成</h3>
<p>当時、<a href="https://rekishigaiden.com/fujiwaranomichinaga/">藤原道長</a>は甥の藤原伊周（道長の兄・藤原道隆の嫡男）と対立していましたが、伊周の妹・藤原定子が一条天皇に入内していたので、道長には付け入る隙がありませんでした。</p>
<p>しかし、伊周は女性関係が原因で失脚します。</p>
<p>伊周は思いを寄せている女性のもとに、別の男性が通っているという噂を知り、待ち伏せしてその男性に矢を射かけましたが、その男性とは花山法皇だったため、大宰府に左遷されてしまったのです。</p>
<p>好機が訪れた道長は、娘の藤原彰子を一条天皇に入内させましたが、一条天皇と定子の間には敦康（あつやす）親王が生まれていました。</p>
<p>その後、定子は亡くなりましたが彰子はなかなか懐妊しなかったため、焦った道長は知的な女性を迎え入れ、文芸を好む一条天皇の気を引くためのサロンをつくろうとします。</p>
<div class="m50"></div>
<p>当時、紫式部は<span class="marker">宣孝を亡くした悲しみを紛らわせるために『源氏物語』を書き始めていました</span>が、その評判を知った<span class="marker">道長に任じられ、彰子に仕える</span>ことになりました。</p>
<p>紫式部を教育係として迎えたことで、彰子のサロンには<a href="https://rekishigaiden.com/izumishikibu/">和泉式部</a>や赤染衛門（あかぞめえもん）などの有名人が集まるようになります。</p>
<p>その結果、一条天皇の寵愛も深まり、紫式部が彰子に仕えるようになってから2年半後の1108年、敦成（あつひら）親王が生まれました。</p>
<p>思惑通りになったことを喜んだ道長は、紫式部に高価な紙や筆を与え続けます。</p>
<p><span class="marker">道長の経済的支援を得た紫式部は思う存分に執筆に励むことができ、1008年頃に『源氏物語』が完成しました。</span></p>
<p>その後、紫式部は1012年頃に彰子のもとを去り、1014年頃に亡くなったとされています。</p>
<p><!--Ads1--></p>
<h2>紫式部のエピソード・逸話</h2>
<h3>仲が悪かった？ライバル清少納言との関係</h3>
<p>紫式部と<a href="https://rekishigaiden.com/seisyonagon/">清少納言</a>はともに宮仕えをしていましたが、宮中にいた時期が違うので直接の面識はなかったとされています。</p>
<p>しかし、紫式部は『紫式部日記』のなかで、「清少納言は得意顔でとんでもない人。漢字を書き散らしているけれど、よく見たら学識の程はまだまだ足りない点が多い」と、清少納言を痛烈に批判していることから、紫式部は『枕草子』を読んでいたと思われます。</p>
<p>紫式部が清少納言を酷評した理由は、『枕草子』のなかに中宮・定子に仕えていたときに起こった出来事が綴られていたことが原因と考えられ、読んだ人々は定子のことを思い出し、一条天皇も定子の産んだ敦康親王を後継者に望んでいました。</p>
<p>そのため、<span class="marker">紫式部は『枕草子』を全否定することで、人々のなかに残る定子の存在を消し去りたかったのではないか</span>と考えられています。</p>
<a href="https://rekishigaiden.com/seisyonagon/" class="blog-card"><div class="blog-card-hl-box"><i class="jic jin-ifont-post"></i><span class="blog-card-hl"></span></div><div class="blog-card-box"><div class="blog-card-thumbnail"><img src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/07/seisyonagon-320x180.jpg" class="blog-card-thumb-image wp-post-image" alt="清少納言" loading="lazy" width ="162" height ="91" /></div><div class="blog-card-content"><span class="blog-card-title">清少納言ってどんな人？枕草子に込めた想いや藤原定子との関係など</span><span class="blog-card-excerpt">中学生のころに初めて「古典」なる授業を受けました。

そこで習ったのが「春はあけぼの」で始まる『枕草子』の一説です。

その『枕...</span></div></div></a>
<h3>道長の愛人！？</h3>
<p>『紫式部日記』には、「部屋を訪ねてきた<a href="https://rekishigaiden.com/fujiwaranomichinaga/">藤原道長</a>に一晩中格子戸を叩かれた」「格子戸を開けていたらどんなに後悔していたでしょう」という記述があります。</p>
<p>さらに、室町時代の初めに完成した『尊卑分脈』のなかで紫式部につけられた注記に「御堂関白道長妾」という一条があることから、<span class="marker">紫式部は道長の愛人だった</span>といわれています。</p>
<p>しかし、『紫式部日記』に道長の求愛を受け入れた記述がないことと、紫式部にとって道長は執筆活動を支えてくれるパトロンで、持ちつ持たれつの関係だったので、男女の関係はなかったと考えられています。</p>
<h3>光源氏のモデルは誰？</h3>
<p>イケメンで才能にも優れた『源氏物語』の主人公である光源氏は架空の人物ですが、実在した人物をモデルにしたといわれており、その候補として多くの人々の名前が挙げられています。</p>
<p>光源氏は桐壺帝の第2皇子として生まれながら、臣籍降下（皇族の身分を離れ、姓を与えられて臣下の籍に降りること）させられました。</p>
<p>そのため、<a href="https://rekishigaiden.com/sagatenno/">嵯峨天皇</a>の12男として生まれた源融と、醍醐天皇の第10皇子として生まれた源高明が、光源氏と境遇が似ていることから有力視されています。</p>
<p>融は京都の六条に河原院という広大な邸宅を所有していましたが、光源氏も六条院という邸宅を造営して、多くの女性と暮らしていました。</p>
<p>一方、学問に優れた高明は左大臣にまで昇進しましたが、969年に起きた安和の変によって大宰府に左遷されてしまいました。</p>
<p>そして、朧月夜との関係が発覚した光源氏も追いつめられて須磨へ隠退しています。</p>
<p>このように、融と高明には光源氏との共通点があるため、モデルとして有力視されていますが、この他にも、在原業平や菅原道真など平安貴族の故事も用いられていることから、紫式部は多くの実在する人物からヒントを得て、光源氏をつくり上げたのではないでしょうか。</p>
<h2>5行でわかる紫式部のまとめ</h2>
<div class="kaisetsu-box3">
<div class="kaisetsu-box3-title">まとめ</div>
<ul>
<li>藤原為時（藤原北家良門流）の娘として生まれる</li>
<li>26歳のとき藤原宣孝と結婚するが、約3年で死別する</li>
<li>夫と死別した悲しみを紛らわすために『源氏物語』を書き始める</li>
<li>藤原道長に任じられて中宮・彰子に仕える</li>
<li>藤原道長の経済的支援を受け、彰子に仕えながら『源氏物語』を完成させる</li>
</ul>
</div>
<p>紫式部は道長の援助を受けて54帖にも及ぶ『源氏物語』を書き上げることができました。</p>
<p>栄華を極めた藤原家は道長の長男・藤原頼通（よりみち）の時代に最盛期を迎えましたが、紫式部に関する記述は1014年頃を最後に消えているので、晩年のことについては分かっていません。</p>
<p>その後、『源氏物語』は20ヶ国以上で翻訳されたこともあり、紫式部はユネスコの「世界の偉人100人」に日本人として初めて選ばれました。</p>
<p>日本だけではなく、海外からも高い評価を受ける『源氏物語』は、完成してから1000年以上経った今でも多くの人々に愛されています。</p>
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